爽やかなピカロ――古今亭志ん朝『居残り佐平次』
落語 The Very Best 極一席1000 居残り佐平次
- アーティスト: 古今亭志ん朝
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックダイレクト
- 発売日: 2009/12/09
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僅かな割り前を条件に大いに遊ぼうと、佐平次は友人四人を誘って品川に繰り込む。立派な見世でさんざん飲み食いしたので、とても割り前だけでは足りないだろうと友人たちは心配する。お前たちは朝一番で帰って、割り前の金はおふくろに届けてくれ、一月くらいはもつだろう。そっちはどうするんだい。どうもこのところ身体の調子が悪い、医者の言うところでは、どこか海の近くへでも行って一月も静養すればよくなるでしょうとのことだ。改まって静養となると金がかかる、そこで居残りすることにした。
川島雄三の映画『幕末太陽伝』は落語の廓噺をちりばめているが、その中心にあるのは『居残り佐平次』である。落語では佐平次の病がなんであるかあきらかにされないが、一月程度ゆっくりすれば治るほどの軽い病とされている。
一方、フランキー堺演じる映画の佐平次は結核で、聞くところによればフランキー堺自身がそれを強く主張したらしいのだが、妙な悲壮味がでて逆効果のように思われた。立川談志や古今亭志ん朝の演ずるところでは、佐平次はいたるところで居残りをしつくしたいわば居残りのプロフェッショナルであり、面が割れていないのは品川くらいしかなかったのだ。そうしたふてぶてしさが映画ではいくぶん損われている。
佐平次は友人たちが裏を返すのを待っているなどと、勘定を引き延ばしていたが、とうとう金がないことがわかり、蒲団部屋に押し込められる。さてそれからが居残りのプロたる佐平次の腕のさえであって、ほったらかされて文句を言っている客があれば相手になり、話もできれば、芸もそこそこだというので、居残りを贔屓にする客がつくようになった。
そうなると割を食うのは宿の若い衆で、ご祝儀をもらえなくなることから苦情が続出した。困った見世の主人は佐平次を呼びだし、勘定はいいから帰ってくれるように頼む。ところが、佐平次は、自分はお尋ね者の身の上、表にでるとどうなるかわからないからもうしばらくいさせてくれという。そんなことを聞いてはよけいに置いておくわけにはいかない。見世の主人は佐平次の言う通り、高飛び用の金と着物を渡し、佐平次は品川でもまた居残りで金をせしめることに成功するのである。
志ん生や円生の『居残り佐平次』では、佐平次が方々で居残りをしたあげく、江戸内では品川以外は出入りができないといったことは語られることがない。しかし、佐平次が居残りのプロであるかないかに従ってこの噺はずいぶん異なった様相を呈する。
特に、志ん朝の『居残り佐平次』では、金と着物をせしめた佐平次が外にでたところで見世の者と行きあい、自らの正体を明かし、せせら笑うように去って行く。病気などは単なる口実にちがいない。見世の主人に自分は悪人だと告げるが、いちいちの内容はともかく、あながち間違ってはいない。立派なピカロなのだ。ただ、庇を借りて母屋を乗っ取るような噺なのだが、あまり深くくいこむことなく、切りのいいところですっぱりと去る姿は落語のなかでも随一の爽やかなピカロなのである。
芸と型と仁左衛門と――河上徹太郎『羽左衛門の死と変貌についての対話』
劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。
思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作るアクセント――そのせりふの抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。
今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせて、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。
通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。
フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。
武士の一分――古今亭志ん生『井戸の茶碗』
古今亭志ん生 名演大全集(34) 唐茄子屋政談/妾馬/井戸の茶碗
- アーティスト: 古今亭志ん生(五代目)
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川戸貞吉は立川談志が信頼していた友人であり、その全5冊に及ぶ『落語大百科』には大変お世話になっているが、違和感を覚えることもある。
時代の変化が大きいのだが、寄席や落語が、人間としての作法、道徳、江戸の言葉、ひととのつきあい方、口の利き方を覚えるための教育の場である、というのが明治以来の落語観を形成しており、それが繰り返し、執拗に非難されている点である。
客の爆笑をとる落語家を抑圧したのもこうした見方であった。それは道徳的な規範に則ったものであるから、自然に内容は決まり切ったものとなり、形式が重要視され、やがては形式も形骸化したものとなり、古典芸能として朽ちていくことになる。
おそらくは時代の相違もある上に、川戸貞吉がラジオ局に就職して演芸の担当になったときに、落語評論家といわれる者たちや好事家たちに蔓延していたこうした落語観と対決しなければならなかった点も大きいだろう。
一方、ドリフターズやタモリ、ビートたけしで育ち、その後で落語に触れた私にとっては、そうした戦いの現場がなかなか想像しにくい。今更落語の道徳を説く者がほとんどいないこともあるだろうし、形式についていえば、むしろそれをノスタルジックに演じだす者が多いことに気味の悪さを感じる方が最近では多くなってしまった。
そうした旧来からの道徳観をあらわした典型的な噺として川戸貞吉によって取り上げられているのがこの『井戸の茶碗』である。
屑屋の清兵衛は曲がったことが大嫌いで、正直清兵衛と呼ばれていた。あるとき、娘と二人暮らしをしている浪人に呼びとめられ、仏像を引き取ってくれるように頼まれる。自分は道具屋ではないので、目が利きませんからといったんは断るが、重ねて頼まれたので、儲けがでたら折半でという条件で持ち帰る。
細川家の家来がそれを買い取ったが、手入れをしていると、中から五十両が出てきた。この家来も正直者で、自分は仏像を買ったので、五十両を買ったわけではないと、買ったところに返してこいと屑屋に言いつける。ところが、浪人はすでに売ったものは自分のものではないと、受け取らない。
大家がなかに入り、浪人と細川家の家来に二十両ずつ、屑屋に十両ということで、話はまとまるかに思えたが、浪人は二十両も受け取りたくないという。そこで、屑屋が向こうになにかを差し上げて、それで金を取れば、貰うわけではなく、売ったことになるでしょうと、知恵をだした。そこで浪人は湯飲み茶碗をだすことになった。
それで決着はついたように思えたが、実はそれは井戸の茶碗という天下の名品で、細川の殿様が三百両で買い上げた。再び、呼ばれた屑屋、また半分の金をもって浪人のもとにやられたが、やはり受け取らない。だが、自分の一人娘を嫁に貰ってくれるなら、結納金として受け取ってもいいという。
間接的にしか知らないが、浪人の人柄に惚れ込んでいた細川家の者も、二つ返事で承知する。娘のことも知っている屑屋が、あれをみがいてごらんなさい、たいしたものになりますよ、と言うと、いや、みがくのはよそう、また小判がでるといけない。
この噺から道徳を導くとすると、人間、正直でなければならないということにでもなるのだろうが、どうも私にはそんな具合には理解できないのだ。
どちらかというと、思いだされるのは西鶴の武家物である。そこには仇をどこまでも追い求めたり、体面を重んじたりする武士の姿が描かれているが、それを道徳的に優れていると諸手を挙げて讃仰している様子はない。むしろ、ちょっとおかしな生態をもつ生物を観察するかのような眼が働いているだけである。
私が聞いた志ん生の演じるこの噺もまた、同様であって、変わった種族がいるものだという志ん生の観察眼のほうがより強く感じられる。
公認せられざる怪物――古今亭志ん生『一眼国』
古今亭志ん生 名演大全集 2 火焔太鼓(どんどんもうかる)/搗屋幸兵衛/たぬさい/一眼国
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スイフトの『ガリヴァー旅行記』を読めばわかるように、「他国人」と人間との縮尺の相違は風刺的意図をもった。風刺的とはいえないが、サドの登場人物では、性器のグロテスクな形状が容赦のない残忍性をもつ指標となっている。
また、ドラキュラや狼男などの古典的怪物から、シュルレアリストの生みだしたデペイズマンによる怪物、ゾンビに到るまで、あらゆる怪物は寓意的な意味合いをもたざるをえない。
欠損から生じたものにせよ、過剰から生じたものにせよ、怪物は人間と認識論的、存在論的に定位づけが異なり、そのあり方を少しでも描こうとするなら、人間との差違は際だち、風刺的寓意的な意図が発生する。
幽霊のようなものにしても同様であり、恨みをたたるというのは、たたられるべきふるまいがあったことを示し、風刺が笑いに近づくのとは方向が逆とはいえ、ひとのあるべきふるまい方を示しているといっていい。志ん生の『一眼国』にそうした意味づけはあるのだろうか。
ある香具師の男が新しい見世物を探している。顔中口の怪物が鍋だったり、金蛇といって蛇に金の絵の具を塗りつけるような、いんちきが多く、観客にもすぐに飽きられてしまい、新しい出しものを探していたのだ。そんなわけで、諸国を巡礼してまわっている六十六部を泊めて、人間でも動物でもいいので、なにか変わったものはないかと尋ねていた。すると、江戸から東の方に、額の真ん中に眼がついた一つ眼の娘を見たという話を聞く。
さっそく男は旅立ち、森のなかで一つ目の娘を見つけるが、人さらいだといって逆に村人たちに捕らえられてしまう。白州に引き立てられると、まわりは一つ眼ばかり、一つ眼の国にきたのだとわかる。一方、奉行のほうは、面をあげいと声をかけると、捕らわれた人さらいには二つの眼がついているではないか、あまり珍しいものだから、調べは後回しにして、これを見世物にだそう。
「いかに変化でも相応の理由がなければ出ては来ず」と書いた柳田國男は、『一目小僧その他』で、妖怪は「公認せられざる神」であるとして、「大昔のいつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた」と大胆な仮説を立て、一眼の背後に「小さい神」をすかし見た。
ところが、志ん生の『一眼国』での一つ眼は、風刺もなければ寓意や恨みもなく、ましてや神聖な意味合いなどきれいさっぱりぬぐい去っている。あるとすれば、観客に飽きられてしまった香具師の珍しいものを得たいという欲求だけなのだ。
怪物は、過剰な人間的意味を生みださずにはおれない、それを扱う者にとっては非常にやっかいな存在なのだが、この噺は、物珍しさという誰にも認められるような軽い動機づけによって、そうした意味づけをもこの上なく軽いものとして、ナンセンス(無方向)に到っている。実際、無方向に順序などあるはずもなく、怪物と人間のあいだにヒエラルキーもないので、より珍しいものが見世物にだされるだけなのだ。
芸の生成ーー幸田文『流れる』
「父の死後約三年、私はずらずらと文章を書いて過して来てしまいました。私が賢ければもつと前にやめていたのでしようが、鈍根のためいままで来てしまつたのです。元来私はものを書くのが好きでないので締切間際までほつておき、ギリギリになつた時に大いそぎで間に合わせ、私としてはいつもその出来が心配でしたが、出てみるとそれが何と一字一句練つたよい文章だとか、いろいろほめられたりするのです。やつつけ仕事ともいえるくらいの私の文章が人様からそんなにいわれると、私は顔から火が出るような恥かしさを感じました。自分として努力せずにやつたことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるものですし、努力しないで生きてゆくことは幸田の家としてもない生き方なのです」(「私は筆を断つ」)
総浚へにあと幾日もないといふ朝だつた。けふだめなら所詮もうだめなやうな気がして聴いてゐた。味噌汁の大根を刻みながら、聴くと云ふよりもむしろ堪へてゐた。もつともいやなそこへ来かゝる。節はこちらももう諳んじてゐる。いやな声、〈へた〉を期待してゐるへんな感じだつた。それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた!と思つた。(中略)日向で見る絹糸よりつやゝかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。これは湧く音楽ではない、浸み入る音である。大木の強さではなく、藤蔓の力をもつ声なのだ。人の心を撃つて一ツにする大きい溶けあひはなくて、疎通はあつても一人一人に立籠らせる節なのだ。すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれて不思議である。肌にぺと/\して来るいやらしさが脱けて、遠く清々しい。梨花の耳が通じたのではなくて、主人の技が吹つ切れたとおもふ。一ツこゝで吹つ切れたのだから、このひとの運は二ツ目三ツ目とよくならないものだらうか、そんな望みが湧いてくる嬉しさである。
消えゆく媒介者――古今亭志ん生『鮑のし』
- アーティスト: 古今亭志ん生(五代目)
- 出版社/メーカー: 日本伝統文化振興財団
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能や歌舞伎の場合、言葉や古典の教養の無さが障害になることがある。下手をするとどういう物語かわからぬまま芝居が終わってしまうこともある。さすがに落語では、そこまで言葉や古典的教養の有無が理解を妨げることはない。吉原や長屋がなくなったといっても、性風俗や隣近所とのつきあいのことを考えれば、実感こそ伴わないとしても、想像はできる。
あるいは、もっともわかりにくいのは祝儀不祝儀ではないだろうか。セックスや生活は否が応でもついて回るが、祝儀不祝儀は晴れ着や喪服と同じように日常的に経験するものではないからだ。もちろん、まったく経験しないことは考えにくいが、いまでは古くからの儀式や形式ぬきで生涯を終えることも十分に考えられる。正直いって、熨斗と水引の相違さえはっきりしなかった私は、はじめてこの噺を聞いたときぴんとこなかった。
仕事にあぶれ、金がなく喰うものにさえ事欠く甚兵衛に女房が知恵を授けた。まず山田の旦那から五十銭借りてくる。貸してくれないよ、と甚兵衛は言うのだが、私の名前を言えば大丈夫だからと送りだされる。確かに金を貸してくれといってもないというだけだったのが、女房の名前を出すとすぐに貸してくれる。女房のほうは、町内でもしっかり者で通っており、信頼度が抜群に高いのだ。
その金で魚屋へ行き、一番安い尾頭つきの魚を買うよう言われる。ところが魚はみな売れてしまっており、鯛だけが残っているが、もちろんそんな高価な魚は買えない。仕方がないので、鮑を買って帰る。ちょうど大家の息子が嫁を取るので、お祝いをもっていけば、お返しに一円はくれるだろう。半分の五十銭は山田の旦那に返し、残りの金で飯を食べようというわけである。
口上まで教わって甚兵衛は大家の家に行くが、「磯の鮑の片思い」ということを知らないのかい、と問われ、ついこれまでの事情を洗いざらいしゃべってしまう。ここでは女房の信頼度の高さが逆に働き、礼儀に通じているはずのおかみさんが知ってるならこれは受け取れない、と突き返される。
とぼとぼと帰る途中であったのが鳶の頭、もう一回大家のところに行って、お宅では熨斗で包んだお祝いものを縁起が悪いからといって熨斗だけとって返すのか仲のよい夫婦がつくる熨斗のどこが縁起が悪い、と言ってやれ。大家にその通りにいうと、さすがの大家も返す言葉がないが、熨斗ののの字は乃とも書くが、あれはどういうわけだと聞いてきた。あれは鮑のおじいさんです。
ぴんとこなかったのも当然で、鮑でつくった熨斗など、無論使ったことがないし、現物を眼に見たことさえない。芝居とは異なり、落語は言葉だけで成り立つ部分が多いので、物を見せるわけにも行かない。落語を理解するには、落語の外に出なければならないのである。そうした部分が、ある種落語のわかりにくさともなるが、風通しのよさともなる。
立川談志は「伝統を現在に」とも、「落語国のリアリティ」ともよく言ったが、自分の才能に対する自負もあっただろうが、落語のもつ風通しのよさに敏感に反応したものとも思える。
この噺で奇妙な点は、町内でもしっかり者で有名な女房が途中からすっかり姿を消してしまうことにある。あえて鳶の頭をだすまでもなく、見事な算段をした女房が機転をきかせてもよかったはずだ。しかしまた、女房が姿を消すというのは、ドメスティックな空間が社会的な、落語国(鳶の頭は女房には欠けていた知恵と啖呵の切り方という行動の作法まで教えてくれる)へと変じることでもあり、そうするとこの噺は二重の意味で落語の風通しのよさを伝えていることになる。
偶然と必然の導入ーード・クインシー『芸術の一分野として見た殺人』
- 作者: トマス・ド・クインシー,野島秀勝,小池ケイ,鈴木聡
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遂に、一八一二年のことだが、ウィリアムズ氏がラトクリフ・ハイウェイの舞台にデビューして、あの余人の及ばぬ殺人劇を演じ、不滅の名声を贏得たのである。この殺人場面について、序でながら言っておかねばならぬが、これが一つの点で悪い効果をもたらした。即ち、殺し場の通人の趣味を甚だむつかしくして、以後この筋の演技のいずれにも満足させぬようにして了ったのだ。彼の深紅色に比べると、他のすべての殺人は蒼ざめて見える。さる識者がかつて私に愚痴をこぼしたものだ、「あの時以降トント駄目になったな、語るに足るものは何一つない」と。だがこれは間違っている。なにしろ、すべての人が偉大な芸術家であり、ウィリアムズ氏の天才を具えているのを期待するのは理にかなわぬから。 小池銈訳
・・・二人とも悪魔の姿にふさわしい、かくて悪魔の世界が忽然と出現する。だがこのことをどうやって伝え、どうして肌身に感じさせるか。新しい世界が登場できるように、この世が暫く退場せねばならない。殺人者たち、そして殺人行為は、孤立させねばならない。一方、日常生活の世界も突然停止し、眠り込み、失神し、怯えた休戦状態に追い込まれたと感じられる、時間は抹殺され、外界の物との関係は断続されねばならぬ。かくて総べては自発的に、この世の情熱の深い休止と中断の中に引籠もらねばならない。このようになってこそ、さて兇行が行われ、暗黒の所業が完成すると、闇の世界は天空の浮雲模様の如く過ぎ去り、門口のノックの音が聞こえる。これは反動の始ったこと、人間的なるものが悪魔的なものの上に捲返し、生の鼓動が再び打ち始めることを耳に知らせるのである。われわれの生きている世界が再び座を占めることは、しばしその世界を中断していたあの畏るべき間狂言を先ず身に沁みて感じさせるのである。(「『マクベス』劇中の門口のノックについて」)