爽やかなピカロ――古今亭志ん朝『居残り佐平次』

 

  僅かな割り前を条件に大いに遊ぼうと、佐平次は友人四人を誘って品川に繰り込む。立派な見世でさんざん飲み食いしたので、とても割り前だけでは足りないだろうと友人たちは心配する。お前たちは朝一番で帰って、割り前の金はおふくろに届けてくれ、一月くらいはもつだろう。そっちはどうするんだい。どうもこのところ身体の調子が悪い、医者の言うところでは、どこか海の近くへでも行って一月も静養すればよくなるでしょうとのことだ。改まって静養となると金がかかる、そこで居残りすることにした。


 川島雄三の映画『幕末太陽伝』は落語の廓噺をちりばめているが、その中心にあるのは『居残り佐平次』である。落語では佐平次の病がなんであるかあきらかにされないが、一月程度ゆっくりすれば治るほどの軽い病とされている。

 

 一方、フランキー堺演じる映画の佐平次は結核で、聞くところによればフランキー堺自身がそれを強く主張したらしいのだが、妙な悲壮味がでて逆効果のように思われた。立川談志古今亭志ん朝の演ずるところでは、佐平次はいたるところで居残りをしつくしたいわば居残りのプロフェッショナルであり、面が割れていないのは品川くらいしかなかったのだ。そうしたふてぶてしさが映画ではいくぶん損われている。


 佐平次は友人たちが裏を返すのを待っているなどと、勘定を引き延ばしていたが、とうとう金がないことがわかり、蒲団部屋に押し込められる。さてそれからが居残りのプロたる佐平次の腕のさえであって、ほったらかされて文句を言っている客があれば相手になり、話もできれば、芸もそこそこだというので、居残りを贔屓にする客がつくようになった。

 

 そうなると割を食うのは宿の若い衆で、ご祝儀をもらえなくなることから苦情が続出した。困った見世の主人は佐平次を呼びだし、勘定はいいから帰ってくれるように頼む。ところが、佐平次は、自分はお尋ね者の身の上、表にでるとどうなるかわからないからもうしばらくいさせてくれという。そんなことを聞いてはよけいに置いておくわけにはいかない。見世の主人は佐平次の言う通り、高飛び用の金と着物を渡し、佐平次は品川でもまた居残りで金をせしめることに成功するのである。


 志ん生や円生の『居残り佐平次』では、佐平次が方々で居残りをしたあげく、江戸内では品川以外は出入りができないといったことは語られることがない。しかし、佐平次が居残りのプロであるかないかに従ってこの噺はずいぶん異なった様相を呈する。

 

 特に、志ん朝の『居残り佐平次』では、金と着物をせしめた佐平次が外にでたところで見世の者と行きあい、自らの正体を明かし、せせら笑うように去って行く。病気などは単なる口実にちがいない。見世の主人に自分は悪人だと告げるが、いちいちの内容はともかく、あながち間違ってはいない。立派なピカロなのだ。ただ、庇を借りて母屋を乗っ取るような噺なのだが、あまり深くくいこむことなく、切りのいいところですっぱりと去る姿は落語のなかでも随一の爽やかなピカロなのである。

芸と型と仁左衛門と――河上徹太郎『羽左衛門の死と変貌についての対話』

 

 

吉田松陰 武と儒による人間像 (講談社文芸文庫)

吉田松陰 武と儒による人間像 (講談社文芸文庫)

 

 

 

 芸は前近代的なものだと思われている。芸にまつわる多くのことは技術で置き換えることができる。技術は普遍的な方法であり、学習される。
 
 谷崎潤一郎は『芸談』(昭和8年)でこんなことを言っている。
 
     劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。
 
 珠でなくとも、革製品でも、木製の家具でもある程度長い間使用した者にはわかることだが、色艶は徐々についていくものではない。ある期間磨くなり、常用するなり、手入れをするなりして、気がついたときには色艶がでている。まさしく色艶の出た瞬間というのは捉えがたいもので、常にまだ艶が足りないか、もう既に艶が出ているかである。
 
 ところが、そうした艶でさえ、「アンティーク調」として大量生産されている。デザインとして流通してしまえば、革や木ではなく、プラスティックのように、本来使い込むことで生じる艶などには無縁のものにさえ、艶が再現される。もちろんそれは本来的なものではないが、艶や芸がどんどん軽視されていることは確かである。
 
 また、「珠を磨く」という例えでは、単調な繰りかえしだけが艶を生じさせるという印象を与え、それが芸事を非効率的なものの筆頭にしている。実際、多くの芸談ではいままさに艶の出る瞬間のことは括弧に入れられ、厳しい稽古のことだけが語られる。
 
 谷崎潤一郎も述べているが、昔の稽古というのは幼児虐待と紙一重で、団十郎(十一代目)の師匠(養父)は、実家の人に向い「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐたら素晴らしい役者になるでせう」と言って、仕込みの途中で死んでしまうならそれも仕方がないという覚悟を示したという。そうした稽古の継続の結果僥倖として色艶を出せた者が名優と呼ばれるわけである。
 
 この神秘的な暈に包まれた芸の本質を解析しようとする試みがなかったわけではない。例えば河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』(昭和5年)などはそうした試みの一つと言えるだろう。もっともこの一篇はプラトンの対話編を擬したもので、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラス三名による非常に抽象的な対話によって成り立っており、実在の羽左衛門とどう関わっているかについては判然としない。
 
 十五代目市村羽左衛門は明治七年に生まれ、昭和二十年に死んでいる。若い頃はその不器用さから「棒鱈役者」と呼ばれたというし、二枚目役が中心で芸域はそれほど広くなかったというから、なんでもこなす器用なタイプの役者ではなかったのだろう。
 
 折口信夫はその『市村羽左衛門論』(昭和22年)で、「書き進んでから、つく/″\恥を覚える。よくも知らぬが、中村加鴈治郎を中にして、前後にゐた優人たちのことなら、或は努力すれば書けるかも知れない。全く市村羽左衛門に到つては、私の観賞範囲を超えた芸格を持つた役者だつたのだ、とつく/″\思ふ。其に、此人の芸は直截明瞭な点が、すべての彼の良質を整頓する土台となつてゐたので、そこには一つは、その愛好者の情熱を牽く所があるのだ。だから彼の芸格が、私に呑みこめぬといふ訣ではない。根本からしても、彼の芸の持つ地方性が、私の観賞の他地方的な部分にどうしても這入つて来ないかと考へた」とその観賞の難しさを述懐している。
 
 私は歌舞伎は歌舞伎座国立劇場その他を加え、十回程度しか見ておらず、そのなかには坂東玉三郎や先年亡くなった勘三郎も含まれていたが、ついぞ至芸を感じたこともなければ、感動さえおぼえたことはない。
 
 そんな歌舞伎についての教養のない私には、羽左衛門の東京生れの「地方性」なるものと芸域の狭さを、例えば久保田万太郎の小説・戯曲や桂文楽の落語と置き換えてみれば理解しやすくなるのだが、それがどれ程の妥当性をもつかはわからない。少なくとも、折口信夫によれば、万太郎や文楽がそれぞれの分野において新たな声を産みだしたように、羽左衛門の新しさもその声にあった。
 
        思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作るアクセント――そのせりふの抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。
        
 また、正宗白鳥羽左衛門には賞賛を惜しまない。三宅周太郎との「芸談義」という対談で、羽左衛門を次のように位置づけている。
 
 「左団次が出て、一時、昔風の歌舞伎は勢いが衰えていた。左団次が盛んな時は、歌舞伎は羽左衛門が閑却されたようだった。しかし、彼は昔のまゝでまっておったようだ。幸四郎ほども新を志していなかった。」
 
 左団次とは二世市川左団次(明治13~昭和15)のこと。ヨーロッパに演劇研究の旅をしたあと、小山内薫と組んで自由劇場を創立し、イプセンゴーリキーメーテルリンクなど海外の作品、日本では森鷗外吉井勇秋田雨雀などの作品を舞台にあげた。その一方、鶴屋南北を復活させ、岡本綺堂真山青果らと新歌舞伎をつくりあげようとした新劇と歌舞伎の垣根を越える革新的な演劇人だった。羽左衛門にはそうした改革の鋭さはなかった。
 
 「三木竹二さんによく聞いておったけれども、羽左衛門は、彦三郎は若いとき、竹三郎と云っていたところの、面影があるといっておりました。羽左は昔の江戸の世だったら非常に人気があった筈だ。羽左は、五代目よりもこせこせしたところがなかったし、ぼうっとしたところがあった。彦三郎の方が五代目以上の風格を持っておったそうだが、羽左は五代目に学びながら、却って、知らない彦三郎の趣きを出していたのじゃあるまいか。」
 
 三木竹二森鷗外の弟で、演劇を専門にしていた。彦三郎というのは、羽左衛門とほぼ同時期の六世板東彦三郎(明治19~昭和13)ではなく、五世板東彦三郎(天保3~明治10)である。五代目というのは五世尾上菊五郎(弘化1~明治36)のこと。五世菊五郎は五世彦三郎の演出を継承するところが多かったという。
 
 つまり、羽左衛門は五世菊五郎に学びながら、直接には知ることのない五世彦三郎の芸を継承していたわけである。二人の意見では、羽左衛門の真面目は『近江源氏先陣館』の盛綱、『源平布引滝』の実盛など生締物(実在の人物を演じること。油で棒状に固めた生締という鬘を用いるところからこう呼ばれるにあった。
 
 そして、白鳥は「実盛を見に行ったときは、年代からいっても、羽左衛門は実に歌舞伎の持つ魅力、歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力を与えていた。昔の役者のそれを彼は備えておった」と絶賛している。
 
 もっとも、正宗白鳥よりはやや年上で、歌舞伎役者に多く知り合いをもつ家に生まれ、二歳のときに始めて芝居を見物、十八歳からは劇評を、その後歌舞伎の脚本まで書くことになった岡本綺堂(白鳥は明治12年、綺堂は明治5年の生まれ)によれば、真の歌舞伎は羽左衛門の登場より遙か以前に滅びていた。
 
 五世尾上菊五郎、九世市川團十郎が相次いで死んだ明治三十六年がその時であった。「今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものは稍々一種の変体に属するかとも思はれる」(『明治の演劇』)と綺堂は書いている。
 
 岡本綺堂の「真の歌舞伎劇」とはどういったものを指すのだろうか。綺堂は菊五郎がその晩年(明治33年)勘平を演じたときのことを記している。『仮名手本忠臣蔵』四段目の裏として書かれた清元「落人」の道行の勘平である。
 
 五段目、六段目の勘平は数多く演じたが、道行の勘平はこのときがはじめてだった。楽屋の菊五郎は、「役者が五十七になつて、道行の勘平が初役といふのも可笑しいぢやありませんか。まあ、若い者の御手本に遣つて見せてゐるやうなもので、おそらく終り初物でせう」と言っていたという。そして、実際「終り初物」になったのだった。
 
今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせて、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。
 
 綺堂の言う菊五郎の「云ふに云はれない柔かみ」は、白鳥が昔の役者がもっており、羽左衛門にいたって再びあらわれたと言った「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」とさほどの径庭はないように思われる。どちらの役者も、各役柄に関する型の完成の上に、独特な存在の風味をもたらしたと言える。
 
 恐らくそれは、いま我々がテレビなどで役者の私生活の一端を知り、それを舞台上の姿に安易に結びつけることで生じるその役者の「キャラクター」とは似て非なるものに違いない。岡本綺堂が「ふつくらした柔か味のある舞台」と言い、正宗白鳥が「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」と言ったことに注意しよう。そこでは、菊五郎羽左衛門という個人ではなく、歌舞伎そのものが光り輝いていたのである。
 
 芸と対にして言及されることの多い「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンキートンマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア座頭市勝新太郎やくざ映画高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。
 
 それらが「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。
 
 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガードジェイムズ・スチュアートクリント・イーストウッド三船敏郎高倉健北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。
 
 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。
 
 ここまできてようやく河上徹太郎に戻り、『自然人と純粋人』から、「型」について述べられた部分を引用することができる。
 
         通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。
 
 消防夫は河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのだ。それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。
 
 また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。
 
 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。
 
 その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫正宗白鳥河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、「羽左衛門の詩と変貌についての対話」の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。
 
   
   フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。
        ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。
 

 

 河上徹太郎論をするつもりはないが、「聖者の如く呟く」「不器用さ」が彼の作品の一貫したテーマだったと言える。
 
 忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎中原中也、岩野泡鳴、河上肇岡倉天心大杉栄内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。
 
 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけだ。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。
 
 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。
 
 ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。
 
 それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。
 
 もちろん、繰りかえしになるが、わたしは羽左衛門の舞台など見たことはなく、遙か昔、NHKの名優たちの舞台といったような企画もので、羽左衛門の姿を映像で見たことがあるだけである。演目は忘れたが、モノクロの固定カメラで、音声も聞き取りにくく、「これが河上徹太郎の言っている羽左衛門か」と思ったものの、特に凄味のようなものは伝わってこなかった。ただここでは河上徹太郎が取り出してみせた「可能性としての羽左衛門」について語っているわけである。
 
 「自然人と純粋人」からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。
 
 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。そう考えると、舞台の外にもあるとはいえ、そうした「型」がどんどん消滅していることは明らかだ。
 
 投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいても、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきているように思える。
 
 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。
 
 確かに明治期のなってからの内村鑑三河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。
 
 吉田松陰儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある「本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。」という文を読めば明らかである。
 

武士の一分――古今亭志ん生『井戸の茶碗』

 

  川戸貞吉立川談志が信頼していた友人であり、その全5冊に及ぶ『落語大百科』には大変お世話になっているが、違和感を覚えることもある。

 

 時代の変化が大きいのだが、寄席や落語が、人間としての作法、道徳、江戸の言葉、ひととのつきあい方、口の利き方を覚えるための教育の場である、というのが明治以来の落語観を形成しており、それが繰り返し、執拗に非難されている点である。

 

 客の爆笑をとる落語家を抑圧したのもこうした見方であった。それは道徳的な規範に則ったものであるから、自然に内容は決まり切ったものとなり、形式が重要視され、やがては形式も形骸化したものとなり、古典芸能として朽ちていくことになる。


 おそらくは時代の相違もある上に、川戸貞吉がラジオ局に就職して演芸の担当になったときに、落語評論家といわれる者たちや好事家たちに蔓延していたこうした落語観と対決しなければならなかった点も大きいだろう。

 

 一方、ドリフターズタモリビートたけしで育ち、その後で落語に触れた私にとっては、そうした戦いの現場がなかなか想像しにくい。今更落語の道徳を説く者がほとんどいないこともあるだろうし、形式についていえば、むしろそれをノスタルジックに演じだす者が多いことに気味の悪さを感じる方が最近では多くなってしまった。


 そうした旧来からの道徳観をあらわした典型的な噺として川戸貞吉によって取り上げられているのがこの『井戸の茶碗』である。

 

 屑屋の清兵衛は曲がったことが大嫌いで、正直清兵衛と呼ばれていた。あるとき、娘と二人暮らしをしている浪人に呼びとめられ、仏像を引き取ってくれるように頼まれる。自分は道具屋ではないので、目が利きませんからといったんは断るが、重ねて頼まれたので、儲けがでたら折半でという条件で持ち帰る。

 

 細川家の家来がそれを買い取ったが、手入れをしていると、中から五十両が出てきた。この家来も正直者で、自分は仏像を買ったので、五十両を買ったわけではないと、買ったところに返してこいと屑屋に言いつける。ところが、浪人はすでに売ったものは自分のものではないと、受け取らない。

 

 大家がなかに入り、浪人と細川家の家来に二十両ずつ、屑屋に十両ということで、話はまとまるかに思えたが、浪人は二十両も受け取りたくないという。そこで、屑屋が向こうになにかを差し上げて、それで金を取れば、貰うわけではなく、売ったことになるでしょうと、知恵をだした。そこで浪人は湯飲み茶碗をだすことになった。

 

 それで決着はついたように思えたが、実はそれは井戸の茶碗という天下の名品で、細川の殿様が三百両で買い上げた。再び、呼ばれた屑屋、また半分の金をもって浪人のもとにやられたが、やはり受け取らない。だが、自分の一人娘を嫁に貰ってくれるなら、結納金として受け取ってもいいという。

 

 間接的にしか知らないが、浪人の人柄に惚れ込んでいた細川家の者も、二つ返事で承知する。娘のことも知っている屑屋が、あれをみがいてごらんなさい、たいしたものになりますよ、と言うと、いや、みがくのはよそう、また小判がでるといけない。


 この噺から道徳を導くとすると、人間、正直でなければならないということにでもなるのだろうが、どうも私にはそんな具合には理解できないのだ。

 

 どちらかというと、思いだされるのは西鶴武家物である。そこには仇をどこまでも追い求めたり、体面を重んじたりする武士の姿が描かれているが、それを道徳的に優れていると諸手を挙げて讃仰している様子はない。むしろ、ちょっとおかしな生態をもつ生物を観察するかのような眼が働いているだけである。

 

 私が聞いた志ん生の演じるこの噺もまた、同様であって、変わった種族がいるものだという志ん生の観察眼のほうがより強く感じられる。

公認せられざる怪物――古今亭志ん生『一眼国』

 

  スイフトの『ガリヴァー旅行記』を読めばわかるように、「他国人」と人間との縮尺の相違は風刺的意図をもった。風刺的とはいえないが、サドの登場人物では、性器のグロテスクな形状が容赦のない残忍性をもつ指標となっている。


 また、ドラキュラや狼男などの古典的怪物から、シュルレアリストの生みだしたデペイズマンによる怪物、ゾンビに到るまで、あらゆる怪物は寓意的な意味合いをもたざるをえない。

 

 欠損から生じたものにせよ、過剰から生じたものにせよ、怪物は人間と認識論的、存在論的に定位づけが異なり、そのあり方を少しでも描こうとするなら、人間との差違は際だち、風刺的寓意的な意図が発生する。

 

 幽霊のようなものにしても同様であり、恨みをたたるというのは、たたられるべきふるまいがあったことを示し、風刺が笑いに近づくのとは方向が逆とはいえ、ひとのあるべきふるまい方を示しているといっていい。志ん生の『一眼国』にそうした意味づけはあるのだろうか。


 ある香具師の男が新しい見世物を探している。顔中口の怪物が鍋だったり、金蛇といって蛇に金の絵の具を塗りつけるような、いんちきが多く、観客にもすぐに飽きられてしまい、新しい出しものを探していたのだ。そんなわけで、諸国を巡礼してまわっている六十六部を泊めて、人間でも動物でもいいので、なにか変わったものはないかと尋ねていた。すると、江戸から東の方に、額の真ん中に眼がついた一つ眼の娘を見たという話を聞く。

 

 さっそく男は旅立ち、森のなかで一つ目の娘を見つけるが、人さらいだといって逆に村人たちに捕らえられてしまう。白州に引き立てられると、まわりは一つ眼ばかり、一つ眼の国にきたのだとわかる。一方、奉行のほうは、面をあげいと声をかけると、捕らわれた人さらいには二つの眼がついているではないか、あまり珍しいものだから、調べは後回しにして、これを見世物にだそう。


 「いかに変化でも相応の理由がなければ出ては来ず」と書いた柳田國男は、『一目小僧その他』で、妖怪は「公認せられざる神」であるとして、「大昔のいつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた」と大胆な仮説を立て、一眼の背後に「小さい神」をすかし見た。


 ところが、志ん生の『一眼国』での一つ眼は、風刺もなければ寓意や恨みもなく、ましてや神聖な意味合いなどきれいさっぱりぬぐい去っている。あるとすれば、観客に飽きられてしまった香具師の珍しいものを得たいという欲求だけなのだ。

 

 怪物は、過剰な人間的意味を生みださずにはおれない、それを扱う者にとっては非常にやっかいな存在なのだが、この噺は、物珍しさという誰にも認められるような軽い動機づけによって、そうした意味づけをもこの上なく軽いものとして、ナンセンス(無方向)に到っている。実際、無方向に順序などあるはずもなく、怪物と人間のあいだにヒエラルキーもないので、より珍しいものが見世物にだされるだけなのだ。

芸の生成ーー幸田文『流れる』

 

流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)

 

 

 『流れる』が書かれるにいたった経緯は紆余曲折したものであり、この小説を書くことによって幸田文は著述で生活することを決意するにいたった。 
 
 『流れる』(昭和三十年)は、幸田文のはじめての長編小説である。それ以前にも原稿を書いていたが、父親である幸田露伴の晩年、ほとんど寝たきりになった晩年と、それ以前の幸田文が離縁して、露伴と同居するようになってからのほとんど闘いとさえいえるような父親からの家事の教授とそれに対する反発など、多かれ少なかれ父親との関係が中心となっていた。
 
 だが、その後、昭和二十五年に古今東西を問わず類例を見ないような断筆宣言を行った。
 
 「父の死後約三年、私はずらずらと文章を書いて過して来てしまいました。私が賢ければもつと前にやめていたのでしようが、鈍根のためいままで来てしまつたのです。元来私はものを書くのが好きでないので締切間際までほつておき、ギリギリになつた時に大いそぎで間に合わせ、私としてはいつもその出来が心配でしたが、出てみるとそれが何と一字一句練つたよい文章だとか、いろいろほめられたりするのです。やつつけ仕事ともいえるくらいの私の文章が人様からそんなにいわれると、私は顔から火が出るような恥かしさを感じました。自分として努力せずにやつたことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるものですし、努力しないで生きてゆくことは幸田の家としてもない生き方なのです」(「私は筆を断つ」)
 
 そして、書くことによって生計を立てることを潔しとせず、自分ができることを熟慮の末、翌年、柳橋芸者置屋「藤さがみ」に住み込みの女中としてつとめた。もっとも腎臓炎になって二ヶ月ばかりで帰宅することになり、本人が懸命なだけに、傍目にはコミカルに写る。この小説は、短いながらもそこで働いたときの体験がもとになっている。
 
 『流れる』は奇妙な小説である。特に内容が変わっているわけではない。梨花という中年の女性が置屋に女中として入り、やがてそこに住まう皆がばらばらに流れていくまでの傾きかけた芸者置屋での日常が綴られていく。
 
 奇妙なのはその遠近感の欠如にある。梨花、女主人、芸者たちそれぞれの感情のぶつかり合い、生き方や生活において譲れない一線をめぐっての意地の張り合いは非常に鮮やかである。
 
 昭和二十四年の「齢」という掌篇には中年女性の凄まじい啖呵の例が見られるし、父親について書いたものでも、露伴という別の生活原理を持った者との対決の記録であったことを思えば、そうした感情や意気地のやりとりは小説家としての幸田文がすでに自家薬籠中のものとしていたに違いない。
 
 だが、ほぼ芸者置屋から離れることなく進行するこの小説において、置屋がどのくらいの広さをもつものなのか、また、三人称の体裁を取っており、梨花が叙述の中心であり、彼女の見聞きすることによって小説は進んでいくのだが、例えば女主人と芸者との会話を梨花がどこでどのように聞いているのか、同席しているのか、あるいは台所などで聞くともなしに聞いているのかなど空間的配置についてはっきりしない部分が多い。この遠近感のなさは、アカデミックな美術の教育を受けなかったルソーの絵を思わせるところがある。
 
 女主人は「演芸会」のために毎日清元の練習をしている。その会とは「みんなが力を協せて、わが土地のためによそ土地に負けない名舞台・名演技をしようといふのではなくて、たがひに意地の張りあひひぞりあひをして、たとへ対手を殺しても自分だけはのしあがりたいといつた、凄まじい競りあひのやうな感じをもたされる」ものである。女中である梨花も当然主人の稽古を毎日のように聞き、その出来不出来に気持ちを奪われるようになっていくが、主人の声の「我慢ならないいやな調子」はなかなか消え去ることはない。
 
  総浚へにあと幾日もないといふ朝だつた。けふだめなら所詮もうだめなやうな気がして聴いてゐた。味噌汁の大根を刻みながら、聴くと云ふよりもむしろ堪へてゐた。もつともいやなそこへ来かゝる。節はこちらももう諳んじてゐる。いやな声、〈へた〉を期待してゐるへんな感じだつた。それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた!と思つた。(中略)日向で見る絹糸よりつやゝかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。これは湧く音楽ではない、浸み入る音である。大木の強さではなく、藤蔓の力をもつ声なのだ。人の心を撃つて一ツにする大きい溶けあひはなくて、疎通はあつても一人一人に立籠らせる節なのだ。すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれて不思議である。肌にぺと/\して来るいやらしさが脱けて、遠く清々しい。梨花の耳が通じたのではなくて、主人の技が吹つ切れたとおもふ。一ツこゝで吹つ切れたのだから、このひとの運は二ツ目三ツ目とよくならないものだらうか、そんな望みが湧いてくる嬉しさである。
 
 「すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれ」たというのが面白い言い方で、生な生理に密着した表現が芸という形式を見いだしたと言い換えることができよう。二ヶ月とはいえ、置屋に勤めたのは無駄にはならなかった。 「我慢ならないいやな調子」から「遠く清々しい」声への変化を見て取ったことは、あるいは、文筆家として身を立てていく決意と重なり合っていたのかもしれない。

消えゆく媒介者――古今亭志ん生『鮑のし』

 

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

 

  能や歌舞伎の場合、言葉や古典の教養の無さが障害になることがある。下手をするとどういう物語かわからぬまま芝居が終わってしまうこともある。さすがに落語では、そこまで言葉や古典的教養の有無が理解を妨げることはない。吉原や長屋がなくなったといっても、性風俗や隣近所とのつきあいのことを考えれば、実感こそ伴わないとしても、想像はできる。


 あるいは、もっともわかりにくいのは祝儀不祝儀ではないだろうか。セックスや生活は否が応でもついて回るが、祝儀不祝儀は晴れ着や喪服と同じように日常的に経験するものではないからだ。もちろん、まったく経験しないことは考えにくいが、いまでは古くからの儀式や形式ぬきで生涯を終えることも十分に考えられる。正直いって、熨斗と水引の相違さえはっきりしなかった私は、はじめてこの噺を聞いたときぴんとこなかった。


 仕事にあぶれ、金がなく喰うものにさえ事欠く甚兵衛に女房が知恵を授けた。まず山田の旦那から五十銭借りてくる。貸してくれないよ、と甚兵衛は言うのだが、私の名前を言えば大丈夫だからと送りだされる。確かに金を貸してくれといってもないというだけだったのが、女房の名前を出すとすぐに貸してくれる。女房のほうは、町内でもしっかり者で通っており、信頼度が抜群に高いのだ。

 

 その金で魚屋へ行き、一番安い尾頭つきの魚を買うよう言われる。ところが魚はみな売れてしまっており、鯛だけが残っているが、もちろんそんな高価な魚は買えない。仕方がないので、鮑を買って帰る。ちょうど大家の息子が嫁を取るので、お祝いをもっていけば、お返しに一円はくれるだろう。半分の五十銭は山田の旦那に返し、残りの金で飯を食べようというわけである。

 

 口上まで教わって甚兵衛は大家の家に行くが、「磯の鮑の片思い」ということを知らないのかい、と問われ、ついこれまでの事情を洗いざらいしゃべってしまう。ここでは女房の信頼度の高さが逆に働き、礼儀に通じているはずのおかみさんが知ってるならこれは受け取れない、と突き返される。

 

 とぼとぼと帰る途中であったのが鳶の頭、もう一回大家のところに行って、お宅では熨斗で包んだお祝いものを縁起が悪いからといって熨斗だけとって返すのか仲のよい夫婦がつくる熨斗のどこが縁起が悪い、と言ってやれ。大家にその通りにいうと、さすがの大家も返す言葉がないが、熨斗ののの字は乃とも書くが、あれはどういうわけだと聞いてきた。あれは鮑のおじいさんです。


 ぴんとこなかったのも当然で、鮑でつくった熨斗など、無論使ったことがないし、現物を眼に見たことさえない。芝居とは異なり、落語は言葉だけで成り立つ部分が多いので、物を見せるわけにも行かない。落語を理解するには、落語の外に出なければならないのである。そうした部分が、ある種落語のわかりにくさともなるが、風通しのよさともなる。

 

 立川談志は「伝統を現在に」とも、「落語国のリアリティ」ともよく言ったが、自分の才能に対する自負もあっただろうが、落語のもつ風通しのよさに敏感に反応したものとも思える。


 この噺で奇妙な点は、町内でもしっかり者で有名な女房が途中からすっかり姿を消してしまうことにある。あえて鳶の頭をだすまでもなく、見事な算段をした女房が機転をきかせてもよかったはずだ。しかしまた、女房が姿を消すというのは、ドメスティックな空間が社会的な、落語国(鳶の頭は女房には欠けていた知恵と啖呵の切り方という行動の作法まで教えてくれる)へと変じることでもあり、そうするとこの噺は二重の意味で落語の風通しのよさを伝えていることになる。

偶然と必然の導入ーード・クインシー『芸術の一分野として見た殺人』

 

トマス・ド・クインシー著作集〈1〉

トマス・ド・クインシー著作集〈1〉

 

 

 1818年12月7日の真夜中近く、ロンドン東部のラドクリフ・ハイウェイで靴下店を営むマーの家で殺人事件があった。殺されたのは二十四歳のマー、同じく二十四歳の妻、生後三ヶ月の幼児、若い徒弟の四人である。女中のメアリーは夜食用の牡蠣を買いに行っており留守だった。いずれも、鈍器で撲られ昏倒させられたあと、喉を切り裂かれていた。
 
 12日後の12月19日の夜、ラドクリフ・ハイウェイから少し離れた酒場で、その主人である五十六歳のウィリアムソン、六十歳のその妻、五十代の家政婦の三人が同じ手口で殺された。同じ家に住んでいた若い職人は窓から逃れ、人々が駆けつけたため、九歳の孫娘も殺されずにすんだ。
 
 マー家に残されていた凶器の船大工用の槌には、J・Pのイニシャルが記されており、ノルウェー人の船大工、ジョン・ピーターセンが帰国する際に下宿に残していったものだとわかった。同じ下宿から見つかった血のついたフレンチ・ナイフ、証言にあった靴の特徴(きゅっきゅっと鳴る)などからこの下宿屋に住むウィリアムズが逮捕された。彼は監獄のなかで首を吊って自殺する。
 
 連続殺人が珍しくない今日からすれば、七人の犠牲者というのはそれほどのこととも思えないが、切り裂きジャックがあらわれるまでおよそ八十年先だつこの事件はイギリス中に大きな反響を巻き起こした。権力者や貴族たちによる権謀術策の一環としての殺人や、権力と富を存分に使った快楽のための殺人は古代から枚挙にいとまがないが、一般市民が単独で行ない、しかも動機も目的もよくわからないことがこの事件を非常に斬新なものとしたのだろう。
 
 もっとも、P・D・ジェイムズ&T・A・クリッチリー『ラトクリフ街道の殺人』(国書刊行会)には、犯人とされたウィリアムズにかけられた嫌疑が予断と偏見に満ちたものであったことが立証されているという(わたしは未読)。
 
 この事件が犯罪史のみならず、文学史においても記憶されているのは、トマス・ド・クインシーが大きく取り上げたためである。「『マクベス』劇中の門口のノックについて」(一八二三年)ではこう言われている。
 
        遂に、一八一二年のことだが、ウィリアムズ氏がラトクリフ・ハイウェイの舞台にデビューして、あの余人の及ばぬ殺人劇を演じ、不滅の名声を贏得たのである。この殺人場面について、序でながら言っておかねばならぬが、これが一つの点で悪い効果をもたらした。即ち、殺し場の通人の趣味を甚だむつかしくして、以後この筋の演技のいずれにも満足させぬようにして了ったのだ。彼の深紅色に比べると、他のすべての殺人は蒼ざめて見える。さる識者がかつて私に愚痴をこぼしたものだ、「あの時以降トント駄目になったな、語るに足るものは何一つない」と。だがこれは間違っている。なにしろ、すべての人が偉大な芸術家であり、ウィリアムズ氏の天才を具えているのを期待するのは理にかなわぬから。 小池銈訳
 更に一層詳細にこの事件が描きだされたのは「藝術の一分野として見た殺人」の補遺においてである。このエッセイは三つの部分に分かれ、「第一論攷」は1827年、「第二論攷」は1839年、補遺は1854年、つまり、事件から四十三年後に書かれた。
 
 ちょうど「イマーヌエル・カントの最後の日々」が、まるで見てきたかのようにカントの臨終の有り様を描きだし「想像の伝記」の先駆的作品になったように、この補遺は現場に居合わせたかのように殺人の様子を描きだしている。
 
 ポオが探偵の視点から事件を解釈するという仕掛けによって探偵小説を創始したように、ド・クインシーは殺人者や被害者の視点に立つクライム・ノベルの先駆けだと言えるかもしれない。もっとも、ド・クインシー特有のユーモアやペダントリーがふんだんに鏤められているために、著者とは独立した登場人物をそこに認められるかというといささかおぼつかなくはあるが。
 
 この補遺には相当数の事実についての間違いがある。四十年以上も前の事件であること、印刷物の媒体しかなく、簡単に情報を参照できなかった時代であったこともあろう。事件が起きた年、被害者たちの年齢などは記憶の間違い、記憶の摩滅が大いにありそうである。先の引用でも事件の起きた年を1812年としているが、実際は1911年である。被害者たちの年齢はほぼ全てが誤っており、第二の事件で殺されたウィリアムソンに至っては、56歳であるのに70歳以上とされている。
 
 より根本的な間違いは、マルゴ・アン・サリヴァンが『殺人と芸術:トマス・ド・クインシーとラトクリフ・ハイウェイ殺人事件』(一九八七年)でまとめているところによると、次の六つである。
 
 (1)第一の事件で女中のメアリーが買物に出た際、通りの反対側に街灯の光に照らしだされたウィリアムズの姿を認めたことになっているが、実際にはそんな事実はなかった。
 
 (2)ウィリアムズは、第二の事件で犠牲になったウィリアムソンの店の常連であり、友人と言える近しい間柄だった。ド・クインシーの文章では「知り合い〈であった〉といえないわけでもあるまい」として、事件当夜足繁く店にあらわれたと報告されている「幽鬼のように蒼白な男」をウィリアムズだとしている。実際にウィリアムソンも殺される前不審な人物を見かけたと言っていたらしいが、それがウィリアムズだとしたら当然ウィリアムソンにはわかったはずである。
 
 (3)ウィリアムズは「絹で贅沢な裏打ちのなされた」上着を着て殺人を犯したとされているが、それは刑務所官が記した逮捕された後のウィリアムズの服装とは合っているが、殺人者を目撃した人間の証言とは合っていない。
 
 (4)凶器となった槌の出所が判明し、それによってウィリアムズが逮捕されたとされているが、実際にはそれ以前に、多数の容疑者の一人として逮捕されていた。
 
 (5)ウィリアムズの死後、捜査によってその下宿から血のついたポケットとフレンチ・ナイフが見つかったが、それらは別々に、異なった日に発見された。ところが、ド・クインシーでは「胴着のポケットの裏地には、件のフレンチ・ナイフが血糊で貼りついていた」と一緒にされている。
 
 (6)遺体を調べた外科医は、喉を切り裂いたのはナイフではなく、剃刀だと結論したが、ド・クインシーでは逆に「喉を掻き切るのに使われたのは剃刀ではなく、それとはまったく別の形をした器具であった」としてある。
 
 いずれの修正も、「彼の立ち居ふるまいが品の良い物柔らかさという点で際立っていたことは、彼の性格の全般にわたる狡猾さ、ならびに粗野を嫌う洗練された態度とも、調和するものであった」というド・クインシーによるウィリアムズ像に寄与するものだろうが、一体ド・クインシーはこのウィリアム像のどこにその「天才」を認めたのだろうか。「藝術の一分野として見た殺人」とは、道徳的問題を括弧に入れて、殺人を美的に扱うことである。
 
 しかし、ド・クインシーは、一見、猟奇的趣味と自我崇拝とが混然とした世紀末デカダンス趣味(マリオ・プラーツが『肉体と死と悪魔』で縦横に論じつくしたような)を先取りし、悪魔や吸血鬼といった超自然的な色合いをそこにつけ加えなかったわけではないにしろ(「いついかなるときも、彼の顔は、血の気のない蒼白さを保っているのだった。」「あの男の血管をめぐって流れているのは、・・・緑色の樹液みたいなものだったのでしょう。」)、そうした特徴はそれに見合っただけの結果をもたらすわけではない。つまり、ここでの「藝術性」とは、非凡な能力をもった個人が洗練された趣味をもって見事な殺人を遂行することにあるのではない。
 
        見事な殺人の構成のためには、ただ単に、殺す阿呆と殺される阿呆、ナイフ、財布、暗い小路などといった道具立て以上のなにかが必要だということを、人びとは理解するようになってきています。紳士諸賢、意匠、配置、光線と陰翳、詩情、情緒といったものがいまや、そうした性格の試みには不可欠となっているように思われるのです。(中略)詩の分野におけるアイスキュロスやミルトンのように、また絵画の分野におけるミケランジェロのように、ウィリアムズ氏は、自らの藝術を途方もない崇光さの域にまでいたらしめたのです。(「藝術の一分野として見た殺人」鈴木聡訳)
 
 しかし、ミルトンやミケランジェロとは異なり、ウィリアムズは自らの「藝術」をその手で支配したわけではなかった。どちらの事件でも一家全員を皆殺しにすることに失敗し、生存者とウィリアムズとは近い距離にまで接近する。
 
 即ち、第一の事件では、買物から帰ってきたメアリーが扉一枚を隔てて殺人者に対する。「扉の一方の側には、孤独な殺人者である彼が立ち、別の側には、メアリーが立っている。」
 
 第二の事件では、同居していた職人が三階から殺人現場の一階にまで様子を見に下りてくる。「この状況は、かつて記録されたいかなるものをもしのぐ、慄然とするようなものであった。くしゃみや咳、いやそれどころか息使いひとつだけでも、この青年は、命の助かる可能性も、必死にもがく余裕も与えられず、屍体と化すことになるだろう。」この二例はいずれも『マクベス』で、マクベスがダンカン王を殺害したあと、マクベスとその夫人に聞こえるノックの音と同じ効果をあげる。
 
        ・・・二人とも悪魔の姿にふさわしい、かくて悪魔の世界が忽然と出現する。だがこのことをどうやって伝え、どうして肌身に感じさせるか。新しい世界が登場できるように、この世が暫く退場せねばならない。殺人者たち、そして殺人行為は、孤立させねばならない。一方、日常生活の世界も突然停止し、眠り込み、失神し、怯えた休戦状態に追い込まれたと感じられる、時間は抹殺され、外界の物との関係は断続されねばならぬ。かくて総べては自発的に、この世の情熱の深い休止と中断の中に引籠もらねばならない。このようになってこそ、さて兇行が行われ、暗黒の所業が完成すると、闇の世界は天空の浮雲模様の如く過ぎ去り、門口のノックの音が聞こえる。これは反動の始ったこと、人間的なるものが悪魔的なものの上に捲返し、生の鼓動が再び打ち始めることを耳に知らせるのである。われわれの生きている世界が再び座を占めることは、しばしその世界を中断していたあの畏るべき間狂言を先ず身に沁みて感じさせるのである。(「『マクベス』劇中の門口のノックについて」)
 
 殺人の被害者は恐怖に満たされており、そこにはすべての生物に共通な自己保存本能しかない。恐怖に満たされた被害者と「激情――嫉妬、野望、復讐、憎悪――の大嵐が荒狂っている」殺人者によって閉じられた世界に亀裂が入る特権的瞬間を経験できるのは殺人者だけであり、それを二度も生じさせたが故にウィリアムズは「天才」的である。つまり、完璧な計画と趣味を自由に操れる個人としての才能が藝術となるのではなく、犯罪としては失敗である偶然の要素を招き入れ、二つの世界を接触させることで始めて殺人は藝術的たり得る。
 
 ド・クインシーにとって始めから犯人の意図や目的などはなんら問題ではなく(ウィリアムズについてもそうした点は何も触れられていない)、閉ざされた世界の流動化にもっぱら目が注がれていた。殺人をこうした流動化の一種として考えると、偶然をあたかも必然であるかのように招き寄せたウィリアムズの天才は、必然をあたかも偶然であるかのように配置したシェイクスピアの天才と交錯するのであり、必然といい偶然といっても、ある世界でこそ安定していても、他の世界と接触するや容易に反転し流動化することをド・クインシーは言っているかのようである