蹴転の元帳――古今亭志ん生『お直し』

 

古今亭志ん生 名演大全集19 お直し/安兵衛狐

古今亭志ん生 名演大全集19 お直し/安兵衛狐

 

  六代目三遊亭円生は昭和三十四年、芸術祭賞を意識して『文七元問』を力演し、出来も上々、自信をもっていたが、取れなかった。芸術祭には縁がないと諦めた円生は次の年には、自分のレパートリーのなかでも特に自信があるわけではない『首提灯』を軽く演じたところそれが芸術祭賞を取ってしまった。自分の得意な人情噺かなにかで受賞したかったに違いない円生はそれ以後『首提灯』をあまりやらなくなったという(川戸貞吉『落語大百科』)。


 自分の自信や一般的な評価が受賞と結びつかないことはよくあることだが、昭和三十一年古今亭志ん生が『お直し』で芸術祭賞を受賞したことも不思議なことである。

 

 「女郎買いの噺に賞をくれるなんて、粋ですな、大臣さんも」と志ん生は噺のなかで言っているが、廓噺といっても、この噺は、『明烏』のような明るくもなく、『居残り佐平次』のように痛快でもなく、『紺屋高尾』のような夢もなく、同じく志ん生の代表作でいうなら『二階ぞめき』のようなユーモラスで奇妙に倒錯した狂気の愛もない。噺だけ取りだすなら、実に陰惨なのである。


 同じ見世の花魁と若い衆が、御法度なのにもかかわらず深い仲になってしまった。主人のはからいで二人は夫婦になる。ともに働いているうちに小金も貯まり、暮しも楽になった。ところが男が博打に手をだして無一文になってしまった。男は女房に頼みこんで女郎に戻し、年齢もいっているので蹴転(お客を蹴っ転がして入れるからこの名がつくという)という最下級の女郎屋をはじめた。


 『落語大百科』の解説によれば、飲みもの食べものもなく、蒲団一枚、枕が二つ、掛け布団もない。線香一本燃えつきるあいだが一座敷で、延長する場合、亭主が「直してもらいなよ」と声を掛け、延長分の金を貰う仕掛け。線香一本は約三十分で、料金は百文だった。二八蕎麦が十六文だから、蕎麦六杯分で身体を売っていたことになる。


 初日、客が入ると、なるたけ時間を長びかせるために、女房はちやほやする。ヤキモチを焼く亭主は、早く客をおっぱらおうと、お直しだよ、を連発する。客が帰ったあとには夫婦げんかだ。だが、少しでも稼ごうと思って心ないことを言うのもお前さんと一緒にいたいからじゃないか、と言われて仲直りし、語らっているところに先の客が戻ってきて、おーい、直してもらいなよ。


 どん底まで落ちて明るい展望をもちようもないこの「女郎買いの噺」がよりによって芸術祭賞を取ったのは志ん生とともに首をひねらざるを得ないが、それ以前の昭和二十九年に桂文楽が『素人うなぎ』によって、同年桂三木助が『芝浜』によって受賞したこと、また、映画や演劇や放送や音楽などの地味な受賞作一覧(私自身は映画をのぞけばほとんど接したことがないものばかりだが)を見ていると、あるいは落語における自然主義のようなものとして、最下層に生きる人間の姿を如実に表現した作品として評価されたのかもしれない。

 

 しかしながら、もちろん、志ん生がそんなことを考えるわけがない。むしろ方向としては逆であり、最下層のこの男女が問題なのではなく、普遍的な男女の姿が最下層にも認められるだけなのだ。『替わり目』と同じ夫婦の姿があって、どちらも相手の元帳を、魂を確かめる二人が鮮烈なので蹴転という背景を見事にねじ伏せる。

節制と甘美なまでの特異な状態ーーロラン・バルト、吉田健一、道教

 

 

 

ギリシア抒情詩選 (岩波文庫)

ギリシア抒情詩選 (岩波文庫)

 

 

 

ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)

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悲劇の誕生 (岩波文庫)

悲劇の誕生 (岩波文庫)

 

 

 

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

 

 

 

瓦礫の中 (1970年)

瓦礫の中 (1970年)

 

 

 

 

 『彼自身によるロラン・バルト』のなかで、バルトはそれまでの自分の著作を四つの時期に分けている。社会的神話研究、記号学、テクスト性、道徳性とそれらはジャンル分けされ、社会的神話研究に結びつく名前としてあげられているのが、サルトルマルクスと並んでブレヒトである。
 
 この時期、というのはつまり、1950年代、著作で言えば、『零度のエクリチュール』から『神話作用』が完成されている時期に、バルトは演劇にも深く関与しており、「テアトル・ポピュレール」誌を中心に七十篇ほどの劇評を書いている。当然、そこにはブレヒト演劇に対する熱烈な讃辞もあるのだが、後に当時のことを振り返って書いた文章「演劇についての証言」(野村正人訳『ロラン・バルト著作集6』 死後刊行された『演劇論集』の巻頭に収録された)では、まさしくこのブレヒトへの熱狂こそ、自分が演劇から遠ざける結果をもたらしたのだと述べている。
 
 ブレヒトの演劇をするには実はお金がかかるとバルトは言う。とうのは、ブレヒトが舞台に持ちこんでいるのは、単なる思想やそれを伝えるだけのテクニックではなく、文化そのものだからである。いわゆる、政治的な、社会リアリズム的な演劇は、ブルジョア的美学を捨て去ると称しながら、実は具体的な文化のない通俗的な形式をなぞっているだけではないか、そのときブレヒトがもたらす「気品=区別」とは「芝居がそのせいで光り輝くと同時に緊張感を持つような、明快で簡潔な『コード』である。」
 
 つまり、異化効果というのは、決してなにかを排除することではなく、弛緩した空気に緊張感をもたらすような線を引き直すためのコードなのだ。かくして、こうした自分が夢想に思い描いていたような演劇を前にしてしまうと、他の芝居が不完全なものに思われ、結果として演劇から遠ざかることになってしまった、とバルトは書いている。
 
 バルトがブレヒトに惹かれたもう一つの理由は、ブレヒトが思想だか主義のために快楽をないがしろにしないことにあっただろう。バルトは金さえあればハバナ葉巻を買い、ブレヒトも吸っていたからと正当化していたという。また、非常な大食漢で、社会学エドガール・モランの妻で、バルトとは最も長いつきあいの友人の一人である、ヴィオレット・モランは彼の食べ方を「食卓では、彼は舌を出すトカゲのようでした。ある日、面識のない十人足らずの人に囲まれて、夕食をとっていたときなど、フォークで料理を自分の皿に取り、トカゲのように素早く、二度、三度、突き刺していました・・・・・・」(L,-J.カルヴェ『ロラン・バルト伝』花輪光訳)と語っている。
 
 ブレヒトは、バルトにいくつもの層において刺激を与えた唯一の人物であると言える。ジッドやプルーストはバルトが文学をめぐる観念を形成するのに大きな寄与をしたし、ソシュール記号学も、デリダラカンのテクスト性も理論上の影響をあたえたが、そうした理論を(しばしば浅薄だという非難を浴びながら)意味の線を引き直すための道具として使っては捨てていく身振りというのは、むしろ「理論」に奉じようとはしないブレヒトの「反ヒステリー的」な所作に近しいだろう。主義や理論を越えて、バルトとブレヒトには批評的身振り、生存の様態として近しいものがあり、バルトにとってブレヒトは演劇に限られることのない倣うべき先達だったのだ。
 
 ブレヒトがある種演劇の範型を提示してしまったがゆえに、ブレヒト以後滅多な芝居に満足できなくなり、1965年の「演劇についての証言」では、「いまではほとんど劇場に行かない」と書いているが、バルトは別にブレヒトとともに演劇にのめり込んだわけではなかった。実際、この小文の冒頭には「ずっとわたしは演劇が大好きだった」と書かれている。
 
 学生時代のバルトの成績は優秀であり、友人たちとともにフランスの最高学府高等師範学校に進むつもりでいた。しかし、1934年に結核が発病、それから約十年、つまり二十代のほぼ全体をサナトリウムと小康を得てパリに帰ることの繰り返しに過ごすことになってしまった。高等師範学校への進学もあきらめざるを得なかった。
 
 35年にいったんパリに戻り、古典文学士号を取るためにソルボンヌに登録し、そこでソルボンヌ古代演劇グループを創設する。彼らはアイスキュロスの『ペルシアの人々』を公演し、38年にはグループの仲間とともにギリシャに行く。しかし、41年には結核が再発し、42年から足かけ5年の間再びサナトリウムでの生活が始まるのである。
 
 サン=ティレールの学生サナトリウムであったから、文化的な活動は奨励されており、劇団もあったし、学生クラブの機関誌にして季刊誌である「エグジスタンス」もあって、この雑誌にはバルトも寄稿していた。アンドレ・ジッドについて、カミュの『異邦人』について、また古代演劇クラブとギリシャに行ったときの紀行などが発表された。
 
 さて、実はここまで書いてきたのは、その紀行文「ギリシャにて」の一節がはじめて読んで以来頭から離れなくなってしまったからである。この文章は断章形式になっており、『テクストの快楽』以後のバルトがもうそこにいることを示してもいる。私が忘れられなくなったのは「アクラコリア」と表題のついた一節の後半部分なのだが、どのみち短いし、前半部も面白いものだから一緒に引用しよう。
 
 レストラン〈アレキサンドロス大王〉では、古代ギリシャの伝統がいまでも生き続けているように思われる。アクロコリアつまり臓物料理を食べること。動物の内部でわなわな震え、赤く染まり(ついで緑色になる)すべてのもの。古代ギリシャ人は、複雑で退廃的なこの肉をおおいに好んだ。彼らはロースと肉を好まず、脳髄、肝臓、胎児、胸腺、乳房等、そういった柔らかく持ちのわるい肉を好んだが、それらの肉は腐りかけたとき食欲をそそってやまなかった。反対に、ワインについては精妙な慎みがあった。一般的に、大量の水で割ったワインしか飲まなかった(ワインはたったの八分の一まで)。酔うにはそれで充分すぎるほどだった。生のワインを飲むのは、徹底的に飲んで酔っぱらうと固く決意したときだけだった。巧妙な節制の証であるが、それは美徳によって培われたものではなく、陶酔、恍惚、情念を解き放ち、より軽やかに飛翔させるためだった。ほんのわずかにワインで得られる陶酔は、大量に飲んで得られる陶酔とはまったく質を異にする。あまり金をかけないで酔うことは、ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった。オリエントの人々――ギリシャ人に近いところではどこでも――は同じ禁欲を実践していた。それについては、ペルシャの詩人の詩が残されている。
          (『ロラン・バルト著作集1』渡辺諒訳)

 

 
 「複雑で退廃的な」「柔らかく持ちのわるい肉」は、ローマ人のなかで好まれていたことはどこかで読んだおぼえはあるが、古代ギリシャ人にも好まれていたのだろうか。カルヴェの『ロラン・バルト伝』によれば、バルト自身は内臓よりは子牛のクリーム煮やソース類や生クリームなど、総じて「《なめらかなもの》」を好み、内臓を好む友人に向かって「君はギリシャの闘技者と同じようなものを食べるね」と言っていたという。しかし、いずれにしろ、こうした細かな食の好みについて言及するのはいかにもバルトらしい。
 
 たとえば、同じギリシャ紀行でも、三島由紀夫の『アポロの杯』は、かねてからの「眷恋の地」におりたった酩酊感のなかで、美について思いめぐらすばかりで、なにを食べたかなどは一切触れられていない。
 
 ヘンリー・ミラーギリシャ紀行『マルーシの巨像』は、たしかに頻繁に食べる記述はあるのだが、なにを食べたかや味の詮索などはなく、ミラーほど良くも悪くも排気量の極端に大きい人物にとって、食事など所詮エネルギーを取り入れるだけのものであり、そんな細かな個人的快楽は快楽のなかに入らず、友人との形而上学や小説や詩からセックスにいたる尽きることのない会話や、汎神論的に広がる性感覚、世界との一体感にいたってはじめて快楽の名に値するものとなるらしい。
 
 それはともかく、私を真に驚嘆させたのは、後半、大量の水で割ったワインが生のワインと「まったく質を異にする」陶酔をもたらし、それが「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く」という部分だった。
 
 たまたま岡本かの子の『生々流転』を読んでいると、商家の若旦那とそこの番頭が昼間から酒を飲む場面がでてくる。この番頭は親身あり情味ある女房をもらってしばらくは有頂天だったが、しばらくするとそのまとわりつく感じがいやになり三人子供もあったのに別れてしまったような男だが、若旦那との間に相当の応酬を重ねたのち、あるときがくるとぴたりと盃を伏せ、どんなに勧めてもそれ以上のもうとしなかった。若旦那の方は飲みだすとやめられないたちで、番頭の了見がわからないものだから、酒をどんなつもりで飲むんだとなじるように尋ねる。
 
 「判つてゐるぢやございませんか。酔ふためには違ひございませんが、ときには気附け薬になつたり、ときには滋養になつたり、だから飲むに時と処は選みませんが、よいだけ酔つて、これ以上、むだだと思つたらさつさと切上げます。あなたのお言葉ぢやござんせんが、以下は省いてしまひますな。そこは永年の修練です」
 
と番頭は答える。若旦那同様私も「君はまだ滅びない人種の酒呑みだよ」と感嘆するに否はないが、結局それは「むだだと思つたらさつさと切上げ」られ、そうした「修練」を積むにいたった番頭の人間性に対するある種の感嘆であって、大量の水で割ったワインが厳然たる文化であるのとはまるっきり話が違っている。古代ギリシャにワインを水で割る習慣があったことは確かで、アリストテレスは若者に刺激のより少ない水割りのワインを勧めている。しかし、それが生のワインとは質を異にする「特異な状態」をもたらすという確固たる認識が果たしてあったのだろうか。
 
 プラトンの『饗宴』は、題名からいかにも酒を呑みながらの歓談と考えてしまうのだが、実はそうではない。饗宴には手順が定められており、ご馳走を食べ終わると神に葡萄酒を捧げる灌奠などの儀式があり、神への讃歌が歌われ、それから酒ということになる。
 
 ところが、『饗宴』では、それらが一通りすんで酒というところで、出席者の一人であるパウサニアスが「さて、それでは諸君、どういう飲み方をすれば、いちばん楽な飲み方ができるだろうか。実際ぼくとしては、諸君にぶちまけたところ、きのう飲んだ酒でひどく気分が悪く、何か息抜きになるものが欲しいところだ。それに、大部分の諸君だって同様だろうと思う。なにぶん昨日も出席していた君らのことだからね。」(鈴木照雄訳)と提案すると、他の参加者も二日酔いであることを告白し、「まあ気の向くまま飲みたければ飲むといった調子でやろう」ということで、おそらくは酒なしで、エロースに関する考えが順に述べられていくのである。
 
 ロラン・バルトは、古代ギリシャ人が、一般的に大量の水で割ったワインしか飲まなかったこと(ワインは水の八分の一)、そして生のワインと水で割ったワインがもたらす陶酔は質を異にしており、水で割ったワインを飲むことは、「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった」と述べている。この「甘美なまでに特異な状態」とはいかなるものなのだろうか。
 
 プラトンの『饗宴』は、参加者がみな昨日の酒が残った二日酔いの状態であることを告白することにはじまり、恋の神であるエロースについて参加者がそれぞれ自身の「言論」を発表することが続く。なかには、有名な、アリストファネスの説、人間は本来二体が合わさった球形であったが(男女、男男、女女の三種類)、驕慢で神に逆らったためにゼウスによって二つに切断され、それ以来、人間は失われた半身を求めている、という言論が含まれている。
 
 そして、それぞれがエロースについての説を発表したあと、「たいへんな酔っばらい」であるアルキビアデスが乱入し、ソクラテスを賞讃することで『饗宴』は終わる。つまり、二日酔いからはじまり、酔っぱらいの闖入で終わるわけで、ほどよい酩酊とは無縁なのである。
 
 同じくプラトンの『法律』では、酒は若者の弱点をあらわにするので、彼らに注意を与えるに際し有効なテスト法である。だが、いずれにしろある言い伝え、「ディオニュソスは、継母ヘラによって魂の判断力を奪われ、そのためにその復讐をしようとして、バッコスの狂乱やありとあらゆる狂気の踊りをもたらしたのであり、酒もまた、その同じ目的のために贈られたものだ」(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)によれば酒とは狂気への道であるから、軍役に服している者はいついかなるときにも酒ではなく水を飲んで過ごさねばならない、国内にいる奴隷は、男も女も酒を飲んではならない。
 
 船長も裁判官も職務を遂行しているときには飲んではならない。重要な評議会に審議のために出席する者も飲んではならない。いかなる者も、身体の訓練や病気のためでなければ、昼間は決して飲んではならない。夜であっても、子供をもうけるつもりのあるときは飲んではならない、それ以外にも「正気を保ち正しい法律に従う人なら、酒を飲んでならない場合は、たくさんあげられるでしょう。」と述べ、更に「こうした原理に従えば、どんな国家も多くの葡萄園を必要とはしないでしょう。また、他の農産物やすべて日々の食料品が統制を受けますが、なかんずく酒は、あらゆるもののなかで、おそらく最も適量に、最も少なく生産されるでしょう。」といかに酒の力を封じ込めるかに力点が置かれている。
 
 こうしてプラトンは国家全体にそれぞれの職務、階級に則った節制の徳を与えようとしているのだが、こうした節制は単に欲望に対して否定的なものなのではなく、フーコーが言うように、快楽のひとつの術ともなり得る。
 
 というのも、節制の反対である不節制は、欲求を過度に貪ることであり、欲望にいかにも忠実であるように見えて、実は、行き過ぎている。たとえば、飢えや渇きが過度に満足させられれば、その欲望は死に、食べたり飲んだりすることの快楽の感覚は押し殺されるだろう(楽しく食べ続け、飲み続けていたことが、いつかある閾を越え、苦行に近しいものとなることは誰にでも経験があろう)。
 
 つまり、節制というのは、満足を常に控えめに抑えておくことによって、快楽を受ける余地を残しておけるよう身の備えをすることだ、ということになる。ソクラテスからプラトンへといたる快楽の教えはまさしくそのようなものだったのだろう。
 
節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を《活用する》ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうるのだ。ソクラテスによれば、「ただ節制のみが、上述の欲求をわれわれをしてがまんせしめ、ただそれのみが記憶にとどめるに足る快楽を楽しませる」。しかもまさしくこのような仕方でソクラテス自身も、クセノフォンの言葉を信じると、日常生活で快楽を活用している。すなわち、「ソクラテスは食事の量を食事が楽しみである程度にとどめ、そのために、食卓に向かうと、いつでも食欲が調味料のかわりをしていた。酒は咽喉がかわかなければ飲まないから、どんな酒でもおいしかった」。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 田村俶訳)
 
 しかし、これもまたバルトのいう「甘美なまでに特異な状態」からは遠いだろう。いつでもおいしくものを食べ酒を飲めるように、腹具合や喉の状態を少々空腹や渇きをおぼえる程度に保っておくというのは、快楽を一元化することでもある。
 
 つまり、バルトの場合には、生のワインを徹底的に飲んで酔っぱらうという陶酔と、それとは質の異なる水割りのワインによる「より軽やかな」陶酔があったわけだが、このソクラテスプラトン的な節制では、適度な空腹や渇きを癒す際の快楽だけしかないのである。
 
 プラトンから離れ、ギリシャの詩を見てみても、たっぷり飲み明かそうと訴える詩ばかりで、軽やかな特異な陶酔を描いた詩を見いだすことはなかなかできない。前三世紀初頭の詩人、アスクレーピアデースの詩を一編あげておこう。
 
飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故この涙か、何を思ひ悩むのか。
 つれないキュプリスが捕虜にしたのは、お前ひとりではあるまい。
また、お前のためのみに、意地悪い愛神が弓や矢を磨ぎすましたのではあるまい、何故生きながら灰にかう塗れてゐるのか。飲み明かさうよ、さあバッコスの生の飲料を。夜明には指一ふし。
 それとも復た閨にさそふ、灯火の影を見るまで待たうといふか。
飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうちに、
 可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等ではないか。
  (『ギリシア・ローマ叙情詩選』 呉茂一訳)

 

 
 「同じ禁欲を実践していた」(バルト)というオリエントの人々のなかから、(大分年代は下るが)オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をひもといてみても、酒に関する詩は数多くあるが、特異な陶酔は感じられない。二例だけあげておこう。
 
      76
身の内に酒がなくては生きておれぬ、
葡萄酒なくては身の重さにも堪えられぬ。
酒姫がもう一杯と差し出す瞬間の
われは奴隷だ、それが忘れられぬ。
      99
おれは有と無の現象を知った。
またかぎりない変転の本質を知った。
しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、
酔いの彼方にはそれ以上の境地があった。

 

 
といったふうで、少なくとも私には大量に飲む姿勢をあらわしているように思える。
 
 更にいえば、酒と分かちがたく結びつくことになった葡萄の神であるディオニュソスは先に述べたように各地に狂乱を振りまいた神であった。そして、形象に止まり、彫刻や叙事詩に結実したギリシャ精神を「アポロン的」とし、非表象的で、人間の根源的な衝動の発露であり、叙事詩や音楽としてあらわれたギリシャ精神を「ディオニュソス的」と名づけたニーチェによって、酒はより決定的に、深い酩酊と結びつけられるようになったのではないだろうか。
 
 ディオニゾス的興奮は、自分達が内的に合致していると意識するところの、此の如き精霊群にとりまかれたる自分達自身を見ることの此芸術的能力を全群衆へ賦与し得るのである。悲劇合唱のこの作用は劇的根源現象である。自分自身の前に変形されたる自分自身を見るということ、そして今あだかも、人が実際ある別な体に、ある別な性格にはいっていたかのように行動するということは。このようなる作用は劇の発展の発端に立っている。ここにはその形象と融合しないで、むしろ画家の如く観照的な目で自分自身のそとを見るところの、あの史詩吟誦なぞとは異った何物かがある。ここには既に別な性格への没入による個性の放棄がある。そして固よりこのようなる現象は流行病的に出て来る。全群衆がかくの如く変形されて自らを感ずるのである。この故に酒神頌歌は本来はいかなる他の合唱歌とも異っている。月桂樹の枝を手にして、厳かにアポロの神殿へ練り行き乍ら、行列の歌をうたうところの処女達は、依然としてもとの儘の彼女等であり、彼女等の市民としての名前を保持している。酒神頌歌の合唱は、形を変えられた人人の合唱である。そして彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている。希臘人のあらゆる他の合唱的叙情詩は、アポロ的な個人的唱歌者の巨大なる増進にすぎない。しかるに酒神頌歌に於ては、自分達をお互いの間に変形されたものと見なすところの、無意識的な俳優の一共同体が私達の前に立っているのである。
(『悲劇の出生』生田長江訳)

 

 
 こうした経験は、むしろ神秘的とも言えるものであって、飲酒による酩酊などとは質を異にしていると言うべきだろうか。確かにニーチェの描いているのは、神の祭祀に結びついた聖なる経験であり、世俗化されつくした現代の世界とは隔絶しているように思える。しかし、酒神こそいないものの、たとえば吉田健一の短編「酒宴」などはニーチェの呈示したのとさほど異なることのない経験を描いていないだろうか(同じような経験を描いた吉田健一の文章は、枚挙にいとまがない)。
 
 銀座の「よし田」で「円いと言ふ他ない感じの」中年男と飲み始めて別れ難くなる。東京駅の方の地下のなんの飾り気もない店で朝まで飲み、その足で男が酒の技師を務めている灘の工場まで見学しに行く。工場にはタンクが並んであり、大きな茶碗で利き酒をする。見学が終わると、神戸の「しる一」という料理屋の二階で宴会が始まる。やがて、なぜか、いま工場で見てきた四十石入りや七十石入りのタンクが献酬相手になっている。七石さんは胴の真ん中辺のふくらみ方から女であるらしい。いつの間にか場所は山の上の草原になっており、「自分」はタンクを取り巻いて神戸からその後ろの連山まで伸びる途方もなく大きな蛇になっている。
 
 吉田健一の短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。
 
 というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。
 
 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。
 
 だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。
 
 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。
 
それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。
 
 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。
 
 ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。
 
 寅三は占領軍相手の仕事をしているが仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。
 
 吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。
 
 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。
 
 寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。
 
 敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。
 
 それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。
 
 たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。
 
 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。
 
 生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。
 
 〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。
 
 トルストイ、ルソー、ベンヤミンボードレールブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。
 
他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。
 
 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。
 
 もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

キリスト教から笑いへの迂路――ボードレール『笑いの本質について』

 

ボードレール批評〈1〉美術批評(1) (ちくま学芸文庫)

ボードレール批評〈1〉美術批評(1) (ちくま学芸文庫)

 

 

 笑いが優越感に由来することはごく一般的な見解だと言える。すでにホッブスは「自分のあるとつぜんの行為によろこぶことによって、あるいは、他人のなかになにか不格好なものがあるのを知り、それとの比較でとつぜん自己を称讃することによってひきおこされる」(『リヴァイアサン』水田洋訳)のが笑いだと言っている。

 

 ベルグソン有機的なものに機械的なものが張りつくことによって笑いがひきおこされるという説にしても、有機的なものにより大きな価値が付与されているのであるから、優越感がもとになっているのは間違いない。従ってボードレールが「笑いの本質について」でそれを追認しているのを読むと、いささか拍子抜けがするのだが、ボードレールの場合、キリスト教が深く関わることによって相当込み入ったものとなっている。

 

 「新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである」とニーチェは言ったが、このエッセイはニーチェの言葉に対する独特な返答となっている。

 

 そもそも笑いは楽園においてはまったく必要のないものだった。不足するところがまったくないならば、他人を笑う必要などない。そこにあるのは植物や動物が、他の動物たちには関わりなく自ずからあらわにする生存の悦びだけである。同じように、キリストやそれに準ずる聖人たちが笑いから遠いのも当然のことである。楽園に近いことはそれに反比例するかのように、笑いから縁遠いことを意味している。つまり、笑いは人間の原罪の証である。

 

 しかしながら、ここで鮮やかな逆転を見せるのだが、笑いは悪魔的な力を示す最大の武器ともなるのである。「人間との関連においてみれば無限に偉大だが、絶対の『真』および『正義』との関連においててみれば無限に卑小で低劣な、矛盾する二重の本性から、必然的に出てくる合力」(阿部良雄訳)であって、まさに偉大さと卑小さという矛盾を矛盾のまま併せ持つ悪魔を象徴する力となっている。

 

 したがって、真の笑いというのは、膨大な確固たる信仰が大きな落差のなかに注ぎ込まれるとき、はじめて電気のように生じるものである。ローマの喜劇などは信仰の力が圧倒的に少ないし、古代の奇怪な彫像はあくまで彼らにとっては崇拝の対象であり、それが滑稽なものとなるのはキリスト教徒のあいだでしかない。

 

 ところで、ここで二種類の滑稽が区別されることでさらにひねりが加えられる。優越感による笑いには、もっとも身近なものとして、劣った人間を模倣することによってもたらされるものがある。確かにそれは一般的ではあるが、人間にくらべて遙かに偉大である悪魔の力をあらわすものとしては取るに足りない。

 

 別の種類の滑稽、絶対的滑稽あるいはグロテスクと呼ばれるものがあり、それらはもはや人間の劣等性を笑いの対象にすることなく、自然あるいは世界を笑いのめす。楽園の住人たちは世界と調和し、それゆえ笑うこともなく充足した悦びをあらわすだけだった。だが、絶対的滑稽は、神が創造した世界を笑う。それはすなわち、神が定めた価値を否定することでもあって、ボードレールキリスト教を経由することによってニーチェ的、ツァラトゥストラ的哄笑にいたるという離れ業を演じている。

 

ケネス・バーク『恒久性と変化』と読む3(F・L・アレン『シンス・イエスタデイ』)

 

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

 

 

ヴェブレンの「訓練された無能力」という概念

 

 ヴェブレンの「訓練された無能力」という概念は、特に、正しい、そして間違った定位の問題に関連しているように思われる。訓練された無能力によって、彼は人の能力そのものが盲点となり得る事情をあらわしている。もし我々がニワトリにベルの音を餌の信号と解釈するように条件づけ、集めて罰を下すためにベルを鳴らすなら、彼らの訓練は自分の利益に反することになる。過去の教えに従うことで、自分たちの利害を損なう道を選んでいる。或は、我が垢抜けした鱒がかつて危うく引っかかりそうだった疑似餌に形や色が似ているために本当の餌を避けるなら、その不適切な解釈は訓練された無能力の結果だと呼べるだろう。ヴェブレンは総じてこの概念をビジネスマンに限定しており、彼らは金銭的な競争で長い間訓練された結果、それに関連した努力や野心に対してしか定位を行なわず、他の生産や分配の重要な可能性を見て取ることができない。

 

 訓練された無能力という概念は、定位の問題を「回避」や「逃避」との関わりで論じようとする現代の傾向を避ける大きな利点をもっている。正確に用いれば、逃避という観念はなんの難点ももたらさない。人が不満足な状況を避け、別の手段を試してみようとすることはまったく正常で自然なことである。しかし、「逃避」という語はより限定された用いられ方をしている。正確に言えばあらゆる人間に適用されることが、ある種の人間に当てはまるものに限定されようとしている。そのように限定されたとき、当てはまる人間は当てはまらない人間とはまったく異なった定位をする傾向にあり、当てはまらない人間は現実に直面するのに、当てはまる人間は生から逃避し、現実を回避するということになる。そういう区別もあり得るかもしれない。だが、多くの批評家は生、回避、現実との直面ということで正確にはなにが意味されているのか我々に語ることを回避している。こうして、批評上の難点から逃避することで、批評家たちは多くの作家や思想家を逃避の名のもとに自由に責めることができた。最終的に、この語は、特に文学批評では曖昧に用いられることになり、批評家の関心や目的に合わない作家や読者を指すようになった。言及される人物の特徴を示すはずのものが、ほとんど言及している人物の姿勢を伝えるものでしかなくなってしまった。批評家が「Xはあれこれのことをする」というと客観的であるように見える。しかしそれは、「私はXがしていることを個人的に好きではない」ということを戦略的に言い換えているに過ぎないことが多い。

 

 別の言い方をしてみよう。詩人たちによって深刻な社会的不満が述べられる。詩人たちはその憤りを様々な方法で象徴化する。批評家の個人的な好みに合わない象徴化はどんなものであっても逃避と呼ばれる。議論の主たる問題を解決するはずの言葉が、論点を回避するために用いられる。厳寒のラブラドルへ旅することを逃避として片付けることもできるし――ラブラドルのような厳寒の地から離れている我々を「逃避主義者」と呼ぶこともできる。従って、その限定された意味においては、この言葉は正確な定位と欠点のある定位との関係を明らかにする手段としては、無価値であるよりも悪い影響を及ぼすように思われる。それを正しくすべての人間に適用すれば、個人的判断による修正を暗黙のうちに加えなければ、その適用を特定の人間にはうまく限定できなくなる。それゆえ、ヴェブレンの訓練された無能力という概念によって、限定的な「逃避」の使用が曖昧であるとともに余計なことだと証明できると考えることで我々は一安心する。修正された考え方は次のようになろう。

 

 

 1929年9月以後、急落した株価は、一度上向いたが、また下降を続け、その後押し戻すことはなかった。11月には1929年の底値に達した。そのとき大統領だったフーヴァーは、公共事業役人、労働界の指導者、農村の指導者などを呼び寄せ、事業を継続し、賃金の引き下げは行わないことを要請した。

 

 しかし、投資価値は企業と根深く結びついており、恐慌は会社組織を損なわずにはいなかった。工業は縮小し、失業者は増え続けた。フーヴァーはこの危機に際して怠惰であったわけではないが、伝統的に経済を政治とは独立したものとみなしていたので、「自由放任主義」の原則を基本的には守ろうとし、経済界が不況を自ら治癒するのを待っていた。やがてより積極的に経済に介入することに方向転換したが、初動が遅かったためもあるのか、もはや支持を得ることはなかった。1933年、大統領の共和党のフーヴァーは、金融政策を前面に打ち出した民主党ローズヴェルトにかわり、いわゆるニューディールが始まった。

 

 F・C・アレンの『シンス・イエスタデイ』は『オンリー・イエスタデイ』の続編で、1939に刊行された。『オンリー・イエスタデイ』が1920年代の同時代史であったように、『シンス・イエスタデイ』は1930年代の同時代史である。

 

 ヴェブレンは1957年に生まれ、1929年大恐慌の直前に死んだ社会学者、経済学者で、著作としては『有閑階級の理論』や『企業の理論』が有名で、産業をものをつくる産業と営利を目的とするビジネスに大別した。初期のケネス・バークはしきりにヴェブレンを引用している。

 

 マルクスなどとはまったく異なる独特の用語によって価値中立的に社会を分析していく方法がバークに影響を与えてきたのだと考えていたが、アレンの本を読むと、より個別的な、歴史的意味合いもあることがわかる。フーヴァーからローズヴェルトへと大統領が代わる空白期間のあいだ、ハワード・スコットによるテクノクラシー思想なるものが大流行した。

 

 この理論はヴェブレンと、ノーベル化学賞を受けたオックスフォード大学教授のソディの一部分を発展させたもので、かなり難解な観念を基礎にしているという。膨大な科学技術の進歩による可能性は、未来の繁栄に根拠を与える。問題はそうした繁栄のための活動が目先に利益が優先されることによって、負債として蓄積され、しまいには身動きができないことにある。

 

 間違っているのは価格のシステムであり、エルグとジュールというエネルギーの測定単位にとってかわらなければならない。おそらくそれはそれぞれの科学技術の潜在的可能性を組み込んだものなのだろうが、現実にそれをどう数値化するのか、「難解」だと匙を投げているアレンに従って深入りはしないが、この思想が難解な部分は無視されて一般的に大流行し、「ソディとヴェブレンのほとんど忘れられかけた著作が突如売れはじめ」たことがケネス・バークにおけるヴェブレンへの言及の多さの幾分かを説明して、大不況に対する治療薬とは異なる読み方があることを示したのだろう。

幻首と幻胴体――ポウ『ブラックウッド風の記事を書く作法』『ある苦境』

 

ポオ全集 3 詩・評論・書簡

ポオ全集 3 詩・評論・書簡

 

  ポウに「ブラックウッド風の記事を書く作法」という短篇がある。ブラックウッドは1817年に創刊されたイギリスの雑誌で、トマス・ド・クインシーも寄稿していた。この短篇のなかでも、『阿片常用者の告白』が「すばらしい、じつにすばらしい!――荘厳な想像力――深遠な哲学――鋭い省察――火のような激情に満ちみちている上に、断固として理解不可能なものでたっぷりわさびをきかしてあります。一片のフラマリともいうべきもので、読者はさも心よげに舌つづみをうったもんですて」(大橋健三郎訳)と紹介されている。フラマリとは、訳者の注によると、牛乳・卵・小麦粉などでつくった甘い食品だが、「たわごと」の意味ももっているという。

 

 「人類を、教化する、ための、フィラデルフィア、公認、交流、絶対、茶道、青年男女、純、文芸、世界、実験、書誌学、協会」の客員書記というとんでもない長い肩書きをもつサイキー・ジノービアという女性が、雑誌が刊行されているエディンバラに赴き、創刊者のブラックウッドに記事の書き方を教わる。

 

 ブラックウッド誌でもっともすぐれているのは、「怪奇もの」あるいは「激情もの」とも呼ばれている記事で、怪奇や激情はポオの小説の大きなテーマを成しているから、この短篇は、詩「大鴉」ができあがるまでを詳細に解きあかした「構成の原理」の散文版とも言えるかもしれない。もっとも、パロディ的、ナンセンス小説的に書かれている。

 

 とにかく、ブラックウッド氏の言うには、まず感覚を書きとめること、しかも誰も出くわしたことがない苦境に自ら落ちこんで、そこでの感覚を書くことが肝要である。さっそくジノービアは首をつろうとするが、けっこうですが、月並みですな、とたしなめられる。

 

 主題はそれでいいとして、次に文体の問題がある。文体には簡潔調、昂揚、散漫、間投詞調、形而学調、超絶主義調、それらすべてをこき混ぜた混成調がある。そのほかに、博識らしく見せるために、気のきいた事実や表現があり、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語ギリシャ語など断片的でいいから文章にはめこむことが推奨される。こうした教えを受けたジノービアが混成調で書いたのが、「ある苦境」というポウのもうひとつの別の短篇である。

 

 黒人の召使いと愛玩犬のダイアナとともにエディンバラを歩いていると、ゴシック風の大きな教会に出くわした。ジノービアはその尖塔に登り、エディンバラの全容を見わたしたいという抑えがたい欲望にとらえられる。塔に登った彼女は、召使いの肩を借りて、床から七フィートほどの高さにある四角な孔から首を突きだして、三十分以上も眼下の神々しい景色を眺めていた。

 

 ところで、この四角の孔とは時計盤に開いたものであり、そこから時計の針を調節するためのものだった。うかうかと素晴らしい景色を眺めているうちに、まさしく「時の大鎌」たる長針が首に喰いこみ、引き抜くことができなくなってしまうのである。この圧力によってまず片眼が飛びだし、尖塔の急な斜面を転がり、雨樋のなにかにはまり込んだ。しばらくするともう一方の眼も飛びだして同じような道筋をたどった。やがて最後の皮もちぎれ、首が通りのまんなかに落ちていく。

 

 ところが、彼女が感じているのは迷惑を及ぼしていた首を厄介払いできたという幸福感なのだ。二つに別れたジノービアはどちらも自分の方こそ本当のジノービアだと思うのだが、なんとも曖昧である。いつものように嗅ぎ煙草を吸おうとしたのだが、鼻のある首がないのに気づき、首の方へ投げてやる。

 

 「首はしごく満足げに一ひねり鼻にあてがうと、感謝のしるしに私に向かってほほえんでみせた」というのだが、いったいどうやって首は嗅ぎ煙草を鼻にあてがい、胴体はどうして首のほほえみを知ることができたのだろうか。しかしないはずの手足に痛みや痒みをおぼえる幻肢のように、幻首あるいは幻胴体というものがあって、嗅ぎ煙草の臭いも胴体が見たほほえみもそうした感覚を正確に書きとめたものかもしれないのである。

小さな生――古今亭志ん生『おせつ徳三郎』

 

古今亭志ん生 名演大全集 28 富久/おせつ徳三郎(刀屋)

古今亭志ん生 名演大全集 28 富久/おせつ徳三郎(刀屋)

 

  八さん熊さん、ご隠居、与太郎、大家、棟梁、若旦那と落語には多くの典型となる人物が登場するが、数こそさほど多くないが、純情で一本気な若者というのもそのなかに数えられる。たとえば『紺屋高尾』とか同じような噺である『幾代餅』の職人、そしてこの噺の徳三郎がそうである。思いつめたら最後、思いを遂げるところまでいかねば我慢ができない。純真さにおいては『明烏』の若旦那を思わせもするが、彼は結局は籠絡され、数々の道楽者の一員になるまであと少しといってもいい。


 上下と分けられて演じられることが多く、それぞれ上は『花見小僧』、下は『刀屋』という題がついている。徳三郎はある大店の奉公人で、幼いときから奉公に入ったこともあって、店の娘であるおせつの身の回りの世話をすることが多かった。やがて二人とも成長し、いつしか将来の仲を言い交わすようになった。そんなことはまったく知らない店の主人は、いい年頃になってきた娘のために次々と縁談話をもってくるが、どんないい話をもってきてもおせつはいやだという一点張りである。

 

 主人もなにかおかしいと感じていたが、番頭によると徳三郎との仲がおかしいという。そこで、花見のときに供をした小僧を呼びだして、半年に一回のところを月一回の里帰りとお灸を飴と鞭にして、とうとう話を聞きだしてしまう。ここまでが『花見小僧』で、口止めをされている小僧がとんちんかんな答えをしたり、屁理屈で言い抜けようとするところに滑稽感がある。


 二人の仲を確信した主人は、いい加減な理由で徳三郎に暇を出し、強制的に祝言の話を進めてしまう。祝言の日、それを漏れ聞いた徳三郎は、あれほど固く将来を約束をしたのに、と思いつめて刀屋に駆け込む。おせつと婿とを斬り殺してしまおうというのだ。とにかく人を切るための刀をくれ、という徳三郎の様子をいぶかった刀屋の主人は、なにに使うか尋ねる。仕方なく徳三郎は、友人の話としてこれまでの経緯を語る。刀屋は刃物を持たせるよりはいいと思ったものか、川に身投げなさい、それを見たお嬢さんはああそこまで思ってくれていたのか、とあとを追って心中ということになるだろう、という。

 

 そんな話をしているときに、鳶の頭がせわしなく入ってきた。祝言の途中で逃げだしたおせつを探しているとのこと、それを聞いた徳三郎は店を飛びだしていった。そして、おせつと運良く出会うことができた。おせつを探す声に追われるように木場にさしかかり、この世では一緒になれないから、あの世で一緒になりましょう、と心中をすることになる。南無妙法蓮華経、と唱えて橋から飛び降りると、木場なだけに、川一面に浮かべてある木材の上に落ちただけだった、ああ、お材木(お題目)で助かった。


 フランスではオルガズムのことを「小さな死」というが、その名称がよりふさわしいのは落語のこうした部分だろう。助かった二人が、根負けした主人に夫婦とさせてもらえるかどうかはわからない。しかし、死を覚悟して飛び降りる瞬間の二人はまさに失墜のなかにおり、お材木(お題目)で助かったという最後の台詞は、駄洒落に過ぎないにしても、信心を諧謔化したなかにもその芯はしっかりと残っており、二人は、「小さな死」よりも「小さな生」を与えられたように感じたに違いない。

お手本と蝶つがいーー内田百閒『百鬼園俳句帖』

 

百鬼園俳句帖―内田百けん集成〈18〉 (ちくま文庫)

百鬼園俳句帖―内田百けん集成〈18〉 (ちくま文庫)

 

 

作品抄出 三十句

水ぬるむ杭を離るゝ芥かな      『百鬼園俳句帖』

うらゝかや藪の向うの草の山

麗らかや橋の上なる白き雲

袋戸棚に砂糖のにほふ日永哉

浮く虻や鞴の舌の不浄鳴り

捨て水に雲の去来や飛ぶ胡蝶

犬聲の人語に似たる暑さ哉

欠伸して鳴る頬骨や秋の風

五臓六腑繪解きの色や秋の風

饂飩屋の晝來る町や暮の秋

俯せり寢の此頃の癖を蚊帳の果

毛物飼へる夜怖れのあり枯野人

庭先を汽車行く家や釣り干菜

麗らかや長居の客の膝頭        『百鬼園俳句帖拾遺』

晝酒の早き醉なり秋の風

丘に住んで秋雲長き晝寢哉

コスモスに空高し山の手の露地

橋と橋の間の道の小春哉

獨り居の夢に尾もあり初枕

さみだれの田も川もなく降り包み

砂濱を大浪の走る夜の長き

春立つや犀の鼻角根太りて        『俳句全作品季題別総覧』

立春の大手まんぢゆう少し冷たき

ぞろ/\と楽隊通る日永かな

短夜の狐を化かす狐あり

大なまづ揚げて夜降りの雨となり

新堀の河童の床の魚骨哉

龜鳴くや夢は淋しき池のふち

龜鳴きて亭主は酒にどもりけり

がぶがぶと茶をのむ妻の夜寒哉

 


 内田百閒の生まれたのは岡山の大きな酒屋で、使用人のなかには俳句を好む
者もいた。発句の会で選に入ると持ち寄った会費を取ることができたというか
ら、賭博的な性格もあったらしい。


 俳句を作り始めたのは、本人の記憶しているところでは中学校のときで、
「輪くぐりの用意に急ぐ湯浴みかな」という句がその頃のものだという。もっ
とも、本格的に取り組みだしたのは、第六高等学校に俳人でもある志田素琴が
教師として赴任してきてからのことで、一度始めると徹底的にしないではすま
されない百閒の性格をあらわすように(琴、鳥の飼育、猫、飛行機、列車、
酒、食物などとの関わりを見ればわかるように)、一夜会という句会を、最後
には友人と二人きりになって百回まで続けた。俳句だけが原因かどうかはわか
らないが、学年試験で成績を落とし、素琴先生から苦い顔をされたこともあっ
た。それ以降、高校時代のように集中して句作に励むことはなかった。


 昭和九年の『百鬼園俳句帖』、十八年の『百鬼園俳句』編纂の際、「百閒先
生が自ら選外とされた句、句集以後諸雑誌に発表された句、または書簡・真蹟
などの遺珠をもひろく蒐集して」、判明している「百閒先生の俳句の全部」を
収録した『俳句全作品季題別総覧』に収められたのが四百八十四句であるか
ら、小説家としては少なくないとしても、八十年を超える生涯でコンスタント
に俳句とつきあっていたとすると決して多いとも言えない句数である。


 少々意外に感じ、しかしながら、思い返してみるとさもありなんとも思われ
たのは百閒の俳句への取り組み方が窺える次のようなエピソードである。句集
を出すことになったとき、百閒は高校時代の句をほとんど落選させていった
が、「幼稚だけれども、捨てるに忍びない」ものがある。その一句に「湧き出
づる様に水出ぬ海鼠切る」というのがあり、迷ったあげく「滾滾と水湧き出で
ぬ海鼠切る」と直した。すると、今度は「妙な事が心配に」なってくる。

 

かう云う古い、昔に作つた句は、その当時に、きつと何人かのお手本があつて、それを句作の指針にして、同じ題のものを、幾つも試たに違ひない。習作の当時を回想するに、先人の秀句を一つ真中において、その廻りを同じ様な興趣と句法に縛られたなり、ぐるぐると廻つてゐなかつたとは云はれない。その場合、一番ぴつたりした、適切な表現は真中においてある先人の句なので、その通りに云つてしまへば、最も簡単であるけれど、それは人の句であるから、さうは行かない。それで止むなく、舌足らずの、よちよちの、興趣も徹しない類句をいくつも作つて、その中で、ましな奴が覚え帖に残つてゐたものとすれば、今それから仮りに十年を経過してゐるとして、その間に私は当時の句作上の行きさつや、縛られてゐた綱の事などみんな忘れてしまひ、ただ私の句の稚拙なところだけが、十年後の目に、はつきりとわかる。かう直せばいいと思つて、直した結果は、その昔、真中において、お手本にした句そのままになつてゐるのではないか。そのお手本だつた句も、勿論私は忘れてゐる。句は忘れて、さうして既に知つてゐるのである。だから今直した結果同じものが出来ても、自分にはそれが解らない。古い句を直すのは危険である。
        「海鼠」 (『無絃琴』所収)

 

 

 

 もちろん、俳句が今日ほど「自由な」ものでなかったことは考慮に入れねば
ならないが、小説のように「創作」するのでも、吟行で詠み捨てていくのでも
なく、季語を決め、お手本を前にして、類句を沢山作りながらお手本に近づく
ことを心がけていたらしいかなり保守的な勉強法が見て取れる。実際、『冥
土』や『旅順入城式』といった短編の「幻想」をその俳句に期待するとはぐら
かされるだろう。しかも、百閒というと中年から老年にさしかかり、生活スタ
イルの定着した頃の印象が強いために、つい必要以上に昔の人だと思いがちで
あるが、俳句に写生以外のものを持ち込んだ、例えば、山口誓子や西東三鬼の
ような俳人と年代的には一回りも違わないのである。


 こうしたことを心に留めておくと、いわば自分のことは棚に上げて百閒が
「文壇人の俳句」に厳しい評価を与えているのも驚くにはあたらない。師であ
漱石についてさえ、「俳人漱石をさう高く買つてゐない事は、明言し得る」
と言いきっている。なぜ「文壇人の俳句」が「殆ど駄目」なのか。

 

画家の書が本当の書を見る目で見ると、いけないと云ふのと同じであ
つて、つまり画家は、既に審美眼が出来上がつてゐる。自分の審美眼に合ふ様に字を書く。だからその書は形の整つた、或は趣きを具へた、或は古拙に見える色色の特徴で、一部の人に愛好せられるが、しかし書の美は、その書格の中から生まれ出る可きものであつて、あらかじめ字の恰好なり効果の美を知つてゐる人の書いたものは、さう云ふ点でどこかしら本来の味を失つてゐる。つまりどう云ふ風に書けばどうなると云ふ判断の働く事がいけないのであつて、文壇人の俳句は正にその弊を具へてゐると私は思ふのである。俳句の上手下手は、句法なり措辞なりだけで定まる事のないのは勿論で、昔によく云つた境涯と云ふものに達してゐなければ作れるものではない。文壇人は文士であり、文士は言葉を扱ふ者であるから、俳句の作法を聞けば、自分の豊富な語彙を以て何とか尤もらしい句形を整へる事は出来るのであるが、その十七音が俳句になる前に既に作者の方に一つの標準があり批判があり、それに当て嵌めて俳句を捏造する、盛んになればなる程、さう云ふ第二義の句が人の目にふれ易いので、成る可くならば余り流行しない中に下火になる事を私は祈つてゐる。
     (「百鬼園俳談義」 『鬼苑横談』所収)

 

 『冥土』や『旅順入城式』の悪夢のような雰囲気を俳句に移しかえることも
或いは可能であるかもしれないが、そうしたところで、小説家としての「審美
眼」を俳句に当てはめているに過ぎない。つまり、百閒にとって、俳句という
のは、琴や習字などと同じく「お稽古事」として始めるしかないものであり、
お手本を何回もなぞることで、その形を完全に肉体化することができたときに
始めて個性があらわれてくる類の実践である。我流の学習でどれだけ「個性」
らしきものを出したとしても、それは俳句の「格」を損なう手癖でしかないの
である。「文壇人の俳句」というのは、多くの場合、あまりにその小説と似て
おり、「小説的」であることと小説を通じてあらわになるべき「個性のしる
し」がついていることで二重に俳句を裏切っている。こうした意味で、百閒の
俳句がその小説に似ていないことは、百閒の俳句に対する考え方の必然的な帰
結である。


 さて、「百鬼園俳談義」(文字通り、百閒の談話を筆記したものであるが)
には、こうした意外に思われてもよく考えれば必然性のある厳格さとは対照的
に、一見したところいかにも百閒らしいが、その意味するところを辿ると『冥
土』の世界に誘い込まれたかのような落ち着かない気分にさせられる発言があ
る。冒頭、百閒は、人口に膾炙した四句、古池や蛙飛び込む水の音、荒海や佐
渡に横たふ天の川、名月や畳の上の松の影、指南車を胡地に引去る霞かな、を
あげて評釈している。「この古池を読んでゐると、少し可笑しくなつて来る」
と始まった時点で、何か漠とした不穏な雰囲気が漂っている。

 

古池と云ふものが、考へ方によると、可笑しなものであつて、水際ははつきりしてゐない泥の崩れた様な所で、水面には、この俳句から考へると春の事であるから所所に水草が芽を出してゐるであらう。晴天なら晴れた空を映してゐる。古池の上に空が晴れてゐると云ふのも、想像の上で少し可笑しい。又曇つてゐて、雲が池の上にかぶさつてゐるとか、或は風が吹いて水面に波が立つてゐるとか、さう云ふ景色を此方で古池と云ふものにこだはつて思ひ浮かべて見ると、どうしても滑稽な感じが伴なふ。仮りにその池の辺りを歩いてゐるとしたら、さうしてさう云ふ事に想到するとしたら、人のゐない所で独笑ひが浮びさうに思はれる。その古池に蛙が飛び込んで、静寂を破る水音を立てた。それは幽玄の黙示であると云ふ風に、古来解説せられてゐるが、又さうでないとも云はないが、しかし一寸気を変へてその景色を味はふと、芭蕉と云ふ人も随分可笑しな事を云ふものだと考へられる。段段その考へにこだはると、心の中で古池の句を繰り返すだけで、可笑しくて堪らない。

 

 「荒海や」の句については、「壮大と云ふ感じは勿論受けるけれども、それ
も一寸気を変へて読み直すと、暗い荒海の上に天の川が光つてゐると云ふの
は、滑稽な景色である」と言い、「名月や」の句については、「名月が松の向
うから松の樹を照らし、松がその影を開け広げた座敷の畳に投げて、それを誰
かが見て、この句に盛られた様な感興を抱いたとすると、笑はずにはゐられな
い」と言う。そして、最後には、「さう云ふ事を気にしてゐると、心に浮かぶ
古来の名句が今まで気の附かなかつた様な可笑し味を誘ふのである」と述べ
る。


 もし古来の名句が、すべて「可笑し味」や「滑稽」さを湛えたものであり、
いわゆる俳句的な「美意識」の伝統と呼ばれるものが、「滑稽」を生みだすた
めの組み合わせを洗練させてきたものだとすれば、名句を手本にし、修練を重
ねるとは、最も深く効果的な無意味さを身につけるための必須の手順であるこ
とになる。俳句が小説的な要素を斥けるべきなのは、洗練されてきた俳句の無
意味が小説的意味によって汚染されてしまうからであり、我流の個性が俳句に
とって百害あって一利もないのは、個々の特殊な気質や利害得失によって限定
された無意味が底の割れた私的な無意味でしかないからである。


 『冥土』などの短編では、その多くで、丹念に積みかさねられた描写が、
「水を浴びた様な気持ちがした」「怖ろしくなつて来た」などという一文をい
わば蝶つがいとして、別の世界へと反転してしまう仕組みが見られる。言い方
を変えれば、小説のような有意味性を基盤とする形式では、或いは、小説のよ
うな雑多な要素が混在する形式では、蝶つがいになるものがなければ、「水を
浴びた様な気持ち」を引き起こす「怖ろしい」無意味を現出させることができ
ない。一方、俳句のようにこの上なく切り詰められた純化された形式では、お
手本を身体にたたき込み、意識することなく「可笑しな事を云ふ」訓練を積む
ことで、形式に密着にした生の無意味さをあらわにすることができる。しかし
ながら、実は、こうした考え方では、古来の名句を「滑稽」だと感じる百閒の
意識が別世界へと裏返る蝶つがいの役割を果しているのであり、期せずして百
閒の小説家としての眼が働いてしまっているのである。