性器の笑い――立川談志『金玉医者』

 

  藪医者をテーマにした小咄のたぐいは多いが、この医者は藪なのだろうか、それとも名医なのだろうか。ある家の娘が原因のわからない病気になってしまう。特に外科的、内科的に問題がないようなので、おそらくは気鬱が原因ででもあるのだろうが、何人の医者に診せてもよくならない。


 出入りの者が、正式な医者ではないが、身内の奇病を治した人物がいる、と紹介してきた。お助け様や田舎仏とも呼ばれているらしいが、まじないや宗教でどうこうするたぐいでもないらしい。駄目でもともとだと、成功したら十両をお礼する約束で見てもらうことにした。

 

 やってきた人物は、ホイホイハイハイと歌うようにつぶやきながら、軽口を叩いているばかりで医者の威厳とはまったく無縁な様子だった。普通の医者のように、脈をとるために手を取りもせず、患者にはまったく触れないで直すという。それでも心配で、障子越しに様子をうかがっていると、世の中は広大でとか、孝行や愛がどうしたとか、人生いかに生きるべきかなどを語る先生の声だけが聞こえてくる。


 この先生は、出てくると、まあ治るでしょう、と請けあった。五日ごとにきて、五回にもなろう頃には娘は起き上がって食事をとり、三味線を弾けるまでに回復した。しかし、父親はいったいどうして治ったのか不思議でならない。我慢ができなくなって、さらに金を包んで、医者の家を訪れて問いただす。

 

 すると、先生が言うには、世の中や愛や慈しみなどと語っているときの自分の格好は、裾を割って立て膝をつき、緩めたふんどしからぶらぶら揺れる金玉が見えるようなものだったという。一方で愛や慈しみなどといったまじめな問題を語っていながら、他方では金玉がぶらぶらしているばかばかしさに娘は思わず笑ってしまい、笑えばしめたもの、笑いというのは生きる気力のようなものだから、それから快方に向かったのだと先生は語る。聞かされた方は、そんなことでと癪にさわるが、しかたがない。


 ところが、梅雨時になるとまた娘の病気がぶり返した。また、先生を呼ぼうかということになるが、父親は、やり方はわかっている、自分で十分だと娘の部屋に行き、前をまくってみせるが、娘は叫び声を上げて目を回してしまう。驚いて先生のところに行き、訳を尋ねると、残らず見せた、それはいけない、薬が効きすぎた。


 金玉は、解剖学的に見れば、精子をつくるという重要な役目を果たす箇所には違いないが、見た目だけからいえば、おそらく臍と並んで人体でもっとも無意味な場所であろう。しかし、世の中や愛の重大さと金玉の無意味さの対比が生む笑いというのは、相当に抽象化された、いってみれば知的な笑いである。

 

 というのも、金玉の湿り気を帯びた皺だらけの形状、その肉感性というどちらかといえばグロテスクな感触がこの噺では排除されているからである。また、娘の年齢は特定されていないが、気鬱であれば思春期の頃であろう、その年頃の娘が性的な生々しさを感じ取らないことも考えにくい。


 思い起こしてみると、小学校低学年の頃だろうか、大人の女性器を見てげらげら笑い転げた鮮明な記憶がある。その笑いはもちろん知的な笑いではなかった。これまでに見たことがない形の滑稽さといえばやや近い気がする。

 

 しかしむしろ、性的な好奇心や意識も充分にあったであろうその時期に、普段は隠されている場所が開き、中から出てきたのが、子供の私にとってはなんの連想ももたらさない妙な形状のものだっただけに、言葉や他のイメージに置き換えられないために開いた裂け目から、ほかに反応のしようがないので笑いという形をとらざるを得なかったのではないか。であるから、それは別に生きる気力とつながっているわけではなく、無意味な形状に反応した(その頃の私にとっては)無意味な笑いであって、気鬱の処方にはなりそうにない。

夢幻的時代劇ーー五味康祐『薄桜記』

 

薄桜記 (新潮文庫)

薄桜記 (新潮文庫)

 

 

 自分で調べたわけではないので、もっぱらこの本に書かれていることによるのだが、浅野内匠頭は名君というにはほど遠く、吝嗇で坊ちゃん育ち、世事に疎いというのが本当のところであったらしい。本来の遺恨のもとも、勅使供応の作法を吉良上野介の意地悪から教えてもらえなかったためではなく、そもそも浅野内匠頭はまだ十七という若いときではあったが、一度勅使供応の経験があった。吉良上野介には諸事監督を願うので、そのお礼として幾ばくかの世話代を出すのをケチったこと、かつて自分がしたときと現在では貨幣価値がまったく異なっているのに、供応代を節約してすまそうとし、さすがにそれでは貧相になると吉良から注意を受けた。
 
 そうしたことが重なって、もともとかんしゃく持ちの浅野内匠頭が殿中で切りつけた。そのとき背中から抱き留めた梶原与惣兵衛は武士の情けを知らぬと非難されたが、そもそも吉良は二太刀受けている。嗜みのある武士ならば、殿中に持参できる小刀で切りつけるべきではなく、当然刺し殺そうとするべきである。二太刀も切りつけて、満足に吉良を刺すこともできないのを見て取って、梶原は拉致がないのを見て取って抱き留めたのだという。幕府側にある種落ち度があるとすれば、藩主を庭先で切腹させてしまったことで、当然そこは座敷内でさせるべきだった。
 
 凡庸な藩主であった浅野内匠頭は領地の支配を苛烈な取り立てを辞さない家老大野九郎兵衛に任せきっていた。浅野家が取りつぶされたときには領民たちのあいだから喜びの声が上がったと伝えられている。
 
 一方、大石内蔵助は主流から外れた家老で、『忠臣蔵』では敵の目を欺くために茶屋遊びに興じているが、実は本来遊び好きであって、そのために閉門を食らったこともあったらしい。ただいったんことが起こり、なにをしなければならないかを理解してからは緻密かつ揺らぐことのない信念をもってみなを引っ張るだけの度量と人格を備えた人物だった。大石とその配下のそれからの行動は称賛されるべきであり、彼らの行動をより美しく描きだすために、必要以上に浅野内匠頭は美化され、吉良上野介は悪人とされたのだという。
 
 この小説は昭和33年7月から34年4月まで産経新聞の夕刊に連載されたものだが、この当時にはさすがに『忠臣蔵』の脱神話化もされていたようで、意見を同じくするところも多い同業作家として海音寺潮五郎の名もあげられている。もっともこの部分は物語の終盤を中断するような考証エッセイ的な部分であり、実はさほど本筋とは関係がない。
 
 副主人公は堀部(旧姓中山)安兵衛なのだが、彼が討ち入りに関わるような部分はほとんど触れられないのである。さらにいえば、主人公である丹下典膳と中山安兵衛という一刀流の道場でも双璧をなす剣士が揃って登場するにもかかわらず、チャンバラ部分はほとんどない。中山安兵衛は典膳のことを話に聞き、その姿を目の当たりにしてから、武士としてのたたずまいに畏敬の念を抱き、惚れ込んでしまう。
 
 丹下典膳は新婚そうそう大阪に配属になり、夫と妻は離れて暮らすことになった。上杉家留守居役の娘である妻の千春は義母にもよく仕え、そこに遺漏はなかったが、新婚早々別れて過ごすことになった不安もあったのか、幼なじみの男友達三之丞との行き来が盛んになり、いつのころからか不義の噂が立つようになった。実際に現場を見たものはいなかったが、噂は大阪にまで知れ渡った。
 
 そんななか典膳の帰府が決まった。江戸に戻っても特に妻を責めるような様子は見せず、「死ぬではないぞ」とだけ釘を刺した。そしていったんは密通を狐狸のたぐいのせいにして、四方が丸く収まったと思われたとき、離縁を申し出る。収まらないのは上杉家である。理由もなにもないと言い切るだけなものだから、その場に居合わせた千春の兄にあたる竜之介が一刀のもとに無抵抗な典膳の左腕を切り落とした。中山安兵衛は典膳ほどの腕がありながら、避けるでもなく腕を切り落とされるままになったことに疑問を感じる。
 
 それはまた読者の疑問でもあり、作者が答えてくれるわけではない。最後には典膳は、上杉家との関係から、吉良の護衛を断れない立場に追い込まれ、討ち入りという長い計画をだめにすることを恐れて、決行の直前、堀部安兵衛に討たれに行くのである。いまでは定かならぬ武士というものの存在のあり方に、堀部安兵衛にさえわからない丹下典膳の生存のあり方が重なり、どこか夢幻的な雰囲気が漂い、『薄桜記』という題名とぴたりと合っている。
 

規則に厳しい恋の神ーージャン・ルノワール『ゲームの規則』(1939年)

 

ゲームの規則 [DVD]

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脚本、ジャン・ルノワール。脚本協力、カルル・コッホ。撮影、ジャン・バシュレ。音楽、ロジェ・デゾルミエール
 
 フランスの小説や映画はそれなりに読んだり見てきたが、この映画の背景となる舞台設定がいまひとつわからなかった。王族がいまだ存在するイギリスとは異なり、さるパーティの出来事が中心になっているのだが、その主催をするロベールという人物が、貴族にあたるのか大ブルジョアであるのかいまひとつはっきりしなかったのである。データベースのシノプシスによると貴族らしいのだが、その妻に恋をしている若者アンドレが、彼女への無償の贈り物として大西洋の飛行機横断を成功させる。ジャン・ルノワール本人が演じるオクターヴは両人の知り合いらしくて、二人を会わせることを約束する。
 
 飛行機で冒険をしたアンドレがどんな身分であるのか皆目見当がつかないし、オクターヴにいたっては自分にはお金がないと言い切っているので、どうして社交界には入れるのか、あるいは、日本でも地方ではいまだに江戸時代以来の藩主の家が続いているところがあって、その人柄によっては、特に社会的な身分などの関わりなくつきあいをすることもあるというから、あるいはそれに似たものであるのかもしれない。
 
 とにかく、オクターヴの尽力もあって、パーティが開かれることになり、アンドレと彼の恋の相手であるロベールの妻も会うことになる。
 
 
徳の高い君は浮気心をなじるけれど
 恨み言はほどほどに
 恋の神は翼をもって
 あちらこちらを飛び移る
 心変わりは罪ですか。

 

 
というボーマルシュの『フィガロの結婚』の一節を題辞にして始まるこの映画のパーティは、まさしくあちらこちらを飛びまわる恋の舞台になるのだが、そこに残酷に介入するのが「ゲームの規則」なのである。
 
 ロベールにも愛人がおり、ロベールの妻もはじめはアンドレを拒否しているものの、やがて受けいれるかと思いきや、年来親しかったオクターヴにも心を動かすことにもなる。ロベールは誰が、それが妻であろうと、誰の愛人になろうかといったことには無関心であり、ただ巨大な自動演奏器の収集に心を奪われている。だが、愛人としてつきあい、恋愛遊戯にふけっているうちには寛容だが、いざ生涯の恋愛対象として深くコミットしようとするやいなや、ゲームの規則はそれを許さない。
 
 あちらこちらに飛び移る恋の神に従っているうちはいいのだが、移動をやめたとたん、そこはすでに恋の神の宰領する場ではなくなり、ゲームから逸脱するのであって、それが単にロベールの意志に過ぎないのではないことは、この規則から逸脱した者たち、つまりアンドレと、妻に過度の嫉妬を示した森番とが、最後の銃撃の被害者と加害者に振り分けられることで厳然と再確認される。

芸術という力業ーーアドルノ『美の理論』

 

美の理論

美の理論

 

 

 三島由紀夫は盛んに美ということを口にした。彼が私淑した先輩作家たち、永井荷風谷崎潤一郎川端康成などは、それぞれにある種の「美しさ」を求めたが、美とは何かなどといった問いにはさしたる関心を払わなかっただろう。彼らは多かれ少なかれ、古典のなかに自分の作品の根拠を見いだすことができ、その連続性を信じていられた。
 
 一方、三島由紀夫は、彼らと同じように古典で教養を身につけていったが、欧米化が止めどなく広がっていくなかにおいて、すでに連続性は失われ、否応なくある理念としての美が求められるようになった。
 
 ところが、西欧においては、プラトンイデアがすでに個物の美的状態をあらわし、それ以降もアリストテレスの『詩学』から、カント、ヘーゲルに至るまで、美学を更新しようとする試みが途切れることはなかったが、いわゆる規範的な意味での美を論じることは、すでに時季外れのことになっていた。
 
 一方、日本においては半ば秘教化された芸道は存在するとしても、美学などは存在したことがなかった。『太陽と鉄』で頂点に達する三島由紀夫の理論的な作品は、砂上に楼閣を築こうとするかのようなものであり、三島由紀夫自身、中年面を下げた自分が美などというのもおかしなことだが、と繰り返し述べていて、ある種のドン・キホーテ的な身振りには十分に自覚的だった。
 
 ほぼ同世代に当たる三島由紀夫安部公房との対談は、安部公房がしきりにヌーヴォーロマンの話を持ち出すのに対し、自分は古くさいことはわかっているが、トーマス・マンなどに問題を感じると返していて、そもそも美学が一度も成立したことがない場所で、その解体だけを受け入れることの危険性を感じていたかのようである。
 
 印象的なのは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』に言及して、この芝居の最後の場面でゴドーが登場しないのはけしからんと(言うまでもないだろうが、この芝居はゴドーという人物を待っている二人の会話によって進むもので、最後までゴドーは登場しないのだが、ゴドーはゴッドのことだなどと様々に解釈された)くさしていることによって、なんとかベケットを美学のなかに回収しようとしている(もちろん、三島なりの全身全霊をあげた戦略的な意図がそこには読み取れる)。
 
 美学の豊かな伝統があるドイツでアドルノが、もはや古典的な美は成立しないと思われるさなかにおいて、あえて美学のなかに足を踏み入れたのは、まさしくゴドーが登場しないこと、文学や演劇が徹底的な現実暴露となり、詩的なものという概念を台無しにしたベケットの「抗い難い魅力」を射程に収めた美学を試みることにあった。ゴドーが神のように超越的なものであろうと、そうでなかろうと、それが登場しないことを受け入れるということは、すべてを劇として回収するようなあらゆる調停を欠いた状態を認めることになる。
 
 古典的な悲劇、個人と共同体との相克は、共同体そのものがなし崩しに崩壊していくなかで、成立しなくなり、典型とはなり得ない卑小な個人の個別な日常のなかで不条理劇の悲喜劇になるか、アウシュビッツ南京大虐殺や原爆などといった、悲劇としても劇の介入を許さないようなグロテスクな現実そのものとなり、表象不可能か、表現したとたん戯画化されてしまうものとなる。近代化の大きな流れとして美の一つの準拠=モデルであった自然は方々で掘り返され、モデルとして成立しなくなり、ベケット的な「抗い難い魅力」は、規範を参照することのないより自律的なものとなる。
 
 別の言い方をすれば、ベケットのゴドー以後、二人によって待たれているゴドーが神であるといったあまりに平板なアレゴリー通俗的なものとして排除されるが、何ものも象徴しない象徴を取り入れることは盛んに行われるようになった。象徴は意味こそ失われはしても、かつての響きを微かに保ったまま使用されることになって、意味の希薄化した記号として流通する。
 
 その結果、もはや美は、三一致の法則、黄金比や自然などといったなんらかの基準をもとに生みだされていく静的なものではなく、いつ介入してくるかわからない「抗い難いもの」とつねに角逐を続けていくしかない動的なものに変化した。
 
 そうした崩壊と平衡を欠いた芸術のなかで、アドルノが規範に頼るもののないものの方途として「力業」をあげている。それはたとえば、音楽の場では、古くから楽譜といういまだ完全には表現されていないものを、さらには本来現実化し得ないものを現実化する契機となっているかもしれない。時代考証の点などで非難されることの多い名人技が否定できないのもそのためであり、名人芸こそが表現しきれないもの、現実化し得ないものを現実化する考え得る一つの道でもある。
 
 
芸術が引きついでいる神学的遺産とは啓示を世俗化すること、つまりそれぞれの作品の理想と限界とを世俗化することにほかならない。芸術と啓示を混同することは、芸術にとって避けえないものである呪物特性を反省することなく理論を通して繰り返すことかもしれない。だが芸術からの啓示の痕跡を根絶するなら、それは存在するものを無差別に繰り返すにすぎないものへと、芸術をして引き下げることに等しいと言えよう。意味連関、つまり統一は存在しないものであるため、芸術作品によって準備されるが、即自存在はそのために準備が行われているにもかかわらず、準備されたものにすぎないために否定される。この場合否定されるのは結局のところ芸術そのものにほからない。どのような人工物も自己に逆らう。力業として、つまり綱渡り的行為として構想された作品は、全芸術を超える何かを白日のもとにさらけ出している。つまり作品は不可能を現実化するものにほかならない。どのような芸術作品も現実化し得ないところを持つが、それによってごく単純な芸術も実際上、力業として規定されることになる。
 

 

 
 この力業は崩壊を徹底的に押し進めることかもしれないし、動的状態のなかで見事に平衡を保つことかもしれない。概念や感覚あるいはセンスだけを操るだけではいかんともしがたい労働が問題になっているのである。
 
 

もうひとつの眼球譚――桂枝雀『義眼』

 

枝雀落語大全(36)

枝雀落語大全(36)

 

 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

 

  バタイユの『眼球譚』では、眼球というオブセッションに取り憑かれた語り手たる「私」とシモーヌの若い男女が、玉子を尻たぶのあわいで滑らせたり、闘牛場で贈られた牡牛の生の睾丸を陰門のなかに納めたりする(「回想」によれば、バタイユは、はじめは牡牛の睾丸を「陰茎の色に似た鮮紅色のしろもののように想像」しており、睾丸と眼球との関わりに気づかなかったが、医者の友人の指摘によって「動物のものも人間のものも睾丸は卵形をしており、それに眼球の外観と色彩を備えていることを発見した」(生田耕作訳)のだという)。

 

 そして最後に、セビリヤの教会の神父をパトロンであるイギリス人のサー・エドモンドとともになぶり殺しにしたあげく、待望の眼球を抉りだして手にするのである。シモーヌはその眼球を肛門に入れ、続けて性器に押しこむ。「私は見たのだ、シモーヌの毛むくじゃらの陰門のなかに、マルセルの薄青色の眼が小便の涙を垂らしながら私を見つめているのを。湯気立つ毛叢のなかを幾筋も伝い流れる腎水がその幻覚に悲痛な嘆きの性格を添えるのだった」(マルセルは二人よりも更に若い少女で、乱交に巻きこまれたのちに精神病院に入り、二人によって救出されるが、すぐに自殺してしまう。いわばマルセルは二人にとってのアイドルであり、欲望を高める促進剤でもあった)。

 


 確かに悪くない小説だが、よくわからない部分もある。特に、性的絶頂と排尿が結びついているところなどがそうで、「私」にしろ、シモーヌにしろ、マルセルにしろ、あたり構わず小便を撒き散らすのである。スカトロ趣味なわけでもないようなので、肉体の決壊と交感というバタイユ的主題が展開されていると考えるしかあるまい。

 


 ところで私には、眼球というテーマでは『義眼』の方がより好ましく思える。眼を患って義眼を入れている男が吉原に行き、大いにもてる。満足して寝るのだが、医者に言いつけられた通り、寝ているあいだは水の入ったコップに義眼を漬けておく。一方、隣り座敷にはひどく酔っぱらって振られっぱなしの男がいる。「喉が渇いた、水をもってこい」といっても誰も相手にしてくれない。ところが隣を覗いてみると、コップに水がある。これはいいとばかりにもってきて義眼ごと飲んでしまった。それからこの男は通じがなくなり、お腹がどんどん張ってきた。医者にいって相談すると、とにかくなにかが詰まっているに違いないから、見てみましょうと、尻の孔に腹中鏡を入れて見た医者がびっくりした。「向こうからも誰かが覗いてました」。

 


 バタイユよりもずっとクールで、なにか妙に広々とした世界を感じさせてくれる。川戸貞吉によると(『落語大百科』)、志ん生はこの噺ばかりしていた時期があったらしい。先代の円楽が全生であった二つ目のころに、この噺を教わりに志ん生のところに行くと「この噺で俺はもう一稼ぎするんだから嫌だ」と教えてくれなかったという。残念なことに私は志ん生の『義眼』はまだ聞いたことがない。私が聞いたのは桂枝雀のもので、そういえば二人とも頭全体が眼球そのものであるかのような容貌をしていて、彼らの顔が尻の孔からこちらを覗いていることを想像すると、嫌が応にも世界はよりひろがっていくことになる。

空間のきらめきーー小澤實 『万太郎の一句』

 

万太郎の一句

万太郎の一句

 

  巻末の小論で、「淡雪のつもるつもりや砂の上」という句をあげ、小澤實は次のように言う。

 

「句を読みおろしている時には春雪振りしきる空間が現れる。純粋にただそれだけである。その空間には思想や生活の影は一切差さない。が、読み終えたとたん、その空間は消えてしまう。積もったはずの雪ももはや残ってはいない。あざやかで、はかないうつくしさを持っている。・・・・・・万太郎の句を読みながら、無内容の美ということをしばしば感じた。いくつかの句を観賞する際にも、その美を説くことにこころを砕いたつもりだ。万太郎俳句の魅力の中心がここにはある。」

 


 例えば、談林調の純粋な言葉遊びもあれば、虚子の無内容な句には、その当否はともあれ、ある「境地」が感じとられ、禅と比較されることもあった。つまり、無内容にも様々な種類がある。

 

 小澤實は、万太郎の句の無内容の内容を「はかないうつくしさ」に見ているが、私には強靱な造型空間にあると思える。この空間は「おもひでの町のだんだら日除かな」の観賞で「昼寝の夢に浮んだ幻影のような鮮やかさとはかなさ」と書かれ、「わたくしの死ぬときの月あかりかな」の所で「照明の当たった舞台の上の死のようでもある」と書かれた空間である。

 

 ただし「淡雪」や「おもひで」とともにこの空間がはかなく崩れ去っていかないところに万太郎の句の魅力があるように感じられるのである(ひどく小さいが、形が崩れず、空間を支配する万太郎の字のことも思いかえしてみよう)。このことは固有名詞の使い方に端的にあらわれている。「初場所やむかし大砲萬右衛門」、「春麻布永坂布屋太兵衛かな」、「泣虫の杉村春子春の雪」等々がそれであって、私は大砲萬右衛門のことなどまったく知らないし、布屋太兵衛の蕎麦も食べたことはなく、杉村春子に特別な思い入れもないが、ちょうど歌舞伎で衣装や隈取りだけでその人物がどんな人物であるか示し、名優ともなればそれだけを中心に強固な空間が形づくられるように、固有名詞に本来結びつく記憶がなくとも、その字、音、語感に対する鋭い感覚によってある情感の充填された初春や春の空間が造型されているのである。


 実は私の万太郎に関する知識は、もっぱら万太郎が生前に出した全集によっていたため、今回晩年の俳句を読むことができたのは幸いだった。特に、始めて「一めんのきらめく露となりにけり」の句を知ったのだが、空間そのものの発するきらめきを捉えたかのようなこの句を「琳派の小品のような装飾的で不思議な世界が広がっている」と評し、「究極の一句であると評価したい」と述べる筆者には満腔の賛意を表したいのである。

塩と知術――横井小楠『沼山対話』

 

日本思想大系〈55〉渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内
 

  横井小楠を意識したのは、勝海舟が『海舟座談』のなかで、「小楠はワシの先生だ」と断ったあとで、「小楠はタイコモチの親方のようなひとで、なにをいうやらとりとめたことがなかった」という一方、「たいていのひとにはわからなかった。しかし、エラクわかったひとで、途方もなく聡明でした」とも述べているのを読んでからだった。さらにその後の、「小楠は毎日芸者をあげて遊んで、幇間などと一日話している。人に会うのでも、一日に一人二人に会うとモウ疲れたなどといって会わない。しかし、植木屋だの、魚屋などと一日話して倦ませなかった」というエピソードなどは非常に魅力的に感じられた。

 

 文久2年(1862年)、松平春嶽のお供で京へのぼるまえの送迎の酒宴で、覆面姿の三人に襲われ、仲間を見捨てて無腰で逃げたことを非難されたいわゆる「士道忘却事件」(文久3年にこのことから出身藩である肥後藩から閉門の咎を受け、明治元年新政府によって呼びだされ参与に就任するまで維新の肝心な部分では活動することなく終わった。そして、翌2年、尊攘派の生き残りによって暗殺された)にしても、いまどきつまらぬ士道にこだわっている場合ではないという開明的な精神が脈打っているように思われた。

 

 しかしながら、『日本思想大系55』の山口宗之による解説「橋本左内横井小楠――反尊攘・倒幕思想の意義と限界――」となると、小楠の「思想の固さ、現実対応の迂遠さ」を指摘したうえ、その原因として、

 

1.小楠は熊本でも藩政に直截関与できるような地位にのぼることはなく、また賓客として招かれた福井藩にしても、あくまで顧問・客分にとどまった。そうした不安定な基盤が「現実認識を不十分にさせ、空虚な観念論に走らせ、かつ時として無責任ともいえる発言をなさしめたのではないか」という。

 

2.西洋の学術に対して深い理解を示したが、その読書傾向を調べると漢籍儒学関係のものが多く、「現実ばなれのした儒者理念にとどまらざるを得なかった」。

 

3.将軍継嗣問題で一橋派が敗退したあとも、英明な将軍を頂点とする集権的国家像を思いえがき「生きた現実にただちに対応するのでなく、内省=儒学理念からスタートせざるをえなかったところに、小楠の“政治思想”の弱さがあった」とさんざんな批判なのである。

 

 まったく異なる人物像に私は困惑せざるをえなかった。タイコモチの親方のような人物で、しかも植木屋や魚屋と一日語って飽きさせないような人物が現実ばなれのした空虚な観念論者たりうるのだろうか。

 

 大佛次郎の『天皇の世紀』には、坂本龍馬が海軍塾の資金をかりに越前に赴いた際、小楠と会ったときのことを語った由利公正の談話が引かれている。

 

「小楠の邸宅は私の家と足羽川を隔ててむかい合っていた。ある日親戚の招宴でおそく帰ったところ、夜半に大声で戸をたたく者がある。出て見ると小楠が坂本と一緒に小舟に棹さしてきた。そこで三人が炉をかかえて飲みはじめたが、坂本が愉快きわまって『君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行末』という歌をうたったが、その声調がすこぶる妙であった。」

 

 このとき、小楠は五十五歳、龍馬は二十九歳、はじめて会った二回り以上若い人物に胸襟を開かせるようなことが空虚な観念論者にできるのだろうか。『日本思想大系』で書簡や談話を読んでもこうした疑問は深まるばかりだった。

 

 元治元年秋の「沼山対話」で書物との関わりを述べた部分、

 

先書は字引と知べく候。一通の書を読得たる後は、書を抛て専己に思ふべく候。思ふて得ざるときに、是を古人に求め書を開てみるべし。心の誠より物理を求むる処切なれば、必中夜にも起て書を閲するほどになるものに候

 

また

 

道理直達と申ても、凡物は塩と申すもの有之候。此の塩と申すものは、至誠惻怛の心より出候て、固より知術とは相違致候。親に孝なるものゝ、務て親を悦さんとて塩を見て笑を含み、又貴人の前に出でゝは序を得、塩を見て言語も発し候など、皆自然の誠にて候。故に凡そ人は塩らしく無して万事行はれ兼候。我に道理あつても透らぬ物に候

 

という箇所などは現実の手強さを骨身に徹して知った者の言葉に思える。結果からのみ歴史的人物を評価し、可能性をまったく考慮しない解説者の方がずっと空虚な観念論者に思える。