江戸をのぞき見――馬文耕『武野俗談』

 私が読んだ本では、著者名は馬文耕となっているが、通称であるらしく、各種事典では馬場文耕になっている。江戸中期の講釈師で、生年は京保3年(1718年)、宝暦になって、美濃国岐阜県)で起きた大規模な百姓一揆が、幕府の評定所まで巻き込み、老中、若年寄の失脚にまで及んだが、それを風刺した文章を発表した結果、幕府を批判したかどで、宝暦8年(1759年)打ち首、獄門となった。下級の幕吏でもあったというが、はっきりしたことはわからない。

 

 『武野俗談』は1756年に発表された。江戸時代の随筆は、ちょっとした記事でも、儒教的な教えに結びつけているものが多いが、そうした教訓衆がないのが魅力的である。扱われているのも、職人、芸人、やくざの親分、遊女などが多く、風通しがいい。いくつかあげよう。

 

 ・阪本順治の映画『王手』は、プロだろうが真剣師だろうが、とにかく将棋が強くなりたい男の話で、普通の将棋盤より2,3倍大きく、駒も通常は二人合わせて40枚だが、一人4,50枚の駒がびっしりと並べられていて、何日間にも及ぶ死闘を繰り広げるという場面があったと思うが、朝鮮から将軍家に贈られたものに秦の七国将棋というのがあったという。秦の七人の武将が駒になっていて、盤の大きさは三間四方というから、5メートル半ほどあって、七人で指すのだという。床几に腰を掛け、杖のような棒をもって指す。田安家の御書院番戸田内蔵助の妹、おくらというものが一番うまく、江戸に匹敵する者はいなかったという。そこで、彼女を借り受けて、稽古するものもあった。

 

 ・新和泉町(現在の人形町のあたり)の家主で、手習いの師範をしていた勝間龍水という人物がいた。金に恬淡で貧しい暮らしをしている。百軒余りの大きな長屋を所有しており、その便所の掃除をするものは、肥料を得る代わりに年八料払うことになっていた。ところが、流水が家主になってからは、どうしていったん出した糞尿の代金をわが身の生計とする道理があろうと、断ってしまった。

 

 手習いで書き損じた紙屑がおびただしくあったので、母親や妻が、紙屑屋を呼んで、売ろうとしたところ、大いにしかりつけ、くずで捨てるものを金にして汁の具にでもするというなら、紙屑を生活の足しにするということで、それ以上卑しいことはない、そんなことをするくらいなら、紙屑をそのまま汁の具にして出すがいいといった。

 

 春のころ、母と妻が寺参りで、留守の折があった。そこへ初鰹を売る魚屋が通りかかったが、一文もない。とりあえず家を見渡したところ、母親が信心する仏壇に光り輝く仏具があった。それらを残らず質屋に売り払って、鰹を買い、近所の俳諧仲間を招いて、大いに振舞った。

 

 ・浅草、御蔵前の曉雨といえば、渡世人のなかで知らぬ者はいない。いつも曉雨が言っていたのは、歌舞伎などの芸にしろ実際にしろ、男伊達というのは、尻へ手をかけ、端折して赤ふんどしを人に見せるようではまだなっておらず、尻へなど手をやらず、ゆるりとしたままたちまち悪者をぶちのめすのが本当なのだそうだ。