・・・羞恥心、いひかへればいろけである。・・・――久保田万太郎の俳句

 久保田万太郎は、もっぱら東京下町の情緒を描き続けた作家だと言われる。たしかに、それは間違いではない。だが、彼を典型的なマイナー・ポエットとみなし、アーネスト・ダウスンを評したオルダス・ハックスレーにならって、「彼はたった一つの感情しか表現できず、たった一つの調べしか知らなかった。しかし、その限界に彼の強みがある。というのも、メランコリーばかりを常に歌い続けることで、最終的に彼は小さいが独特の完成に到達したからである。そして、完成というのは、たとえそれが小さく限定されたものであっても、常に詩人の地位を保証し、読み捨てられることはなくなる」(「九十年代の幽霊」)と言い切ることにはためらいを感じる。ひとつの調べしか知らない地方詩人というよりは、先鋭的な、ある意味実験的とも言えるようなモダンな作家だと思われるのである。それにはいくつかの理由がある。

 

 第一に、万太郎は、テーマは限られていたにしても、活動の幅の広さということで言えば、近代の文学者のなかで文句なく上位を占める。小説、戯曲、エッセイ、俳句を書いたばかりではない。岸田国士岩田豊雄とともに文学座を創立し、演出も手がけた。樋口一葉泉鏡花永井荷風谷崎潤一郎の小説を舞台用に脚色した。慶応大学で教師もしたし、落語家たちと親しく交わり、影響力をもっていた。いとう句会などでは宗匠として場を宰領した。

 

 第二に、小説や戯曲の舞台こそ東京だが、万太郎は東京という都市そのものを対象にしたことはほとんどなかった。永井荷風の随筆や日記を片手に東京をめぐるようなことは万太郎の作品ではちょっと考えにくい。木下杢太郎や永井荷風に特徴的なのは、東京がある種見立ての対象となっていることにある。彼らは自分が生きていた東京の姿に、あるいはパリの姿を、あるいは江戸の姿を透かし見た。こうした操作を経ることで、異化効果を施された東京が鮮やかな姿で浮かびあがることとなる。

 

  万太郎にとって東京とは、その登場人物たちが生活する場ではあるが、他の都市、他の時代の姿を発掘する対象ではなかった。というのも、東京とは万太郎がものを書きはじめたときには、既にして失われて取り戻せないものと感じられていたからである。久保田万太郎は明治二十二年に浅草に生まれたが、とかく現在の我々がアナクロニズムに落ち込みやすいのは、浅草というと、第二次世界大戦前後の、エノケンとロッパの、軽演劇の、六区の、立錐の余地もない活気にあふれた浅草を思い浮かべてしまうが、久保田万太郎にとってそうした浅草は、既に生まれ育った環境が破壊され尽くした後の浅草であったことである。彼が自分にとっての浅草と言うとき指しているのは、関東大震災以前の浅草である。

 

      わたくしは東京で生れた。

     が、東京でも、わたくしの生れたのは……そして育つたのは……浅草である。

     といつたら、あなたはすぐに、雷門をおもひ、仲見世をおもひ、浅草公園をおもふだらう。……その浅草公園にまだ、玉乗だの、娘手踊だの、かつぽれだの、改良剣舞だの、そしてまれに活動写真だのゝ見世物が軒をならべてゐた時分である。十二階の下に、歯医者の松井源水が、居合抜をしたり、独楽をまはしてみせたりしてゐた時分である。池の縁の撃剣の道場が、法螺の貝をふき、太鼓を叩いて客をあつめてゐた時分である。伝法印の塀のそとに大きな溝があり、その溝にむかつて、矢場とよばれた揚弓店のうす暗く一トかたまりになつてゐた時分である。(「Waffle」)

 

 「ぼくは、嘗て、ぼくの一生は“挿話”の連続だといつたことがあるが、これも君にはわかつてもらへると思ふ。むかしから……うそをいへばものごごろついて以来、ぼくの身辺に起つたいろいろの出来事の、一つとしてそれがぼくの一生をつらぬいてゐない……といふことが、年をとるにしたがつて、だんだんぼくにはツきりして来たわけだ。そして、それが、いつそ不思議におもへて仕方がなくなつて来たのだ。……磯によせて来る波がしづかにふくれ上つては、そのまま寂しくくづれてしまふ。……あれだ」(「さもあればあれ」))と述懐する万太郎にとって、この失われた世界を精力的に再構成することを自分の仕事とはしなかった。正確に言えば、万太郎にとっては、東京ではなく、東京人が、更に言えばその心性が最大のテーマだったのである。木下杢太郎が、まさに雷門の大提灯こそが東京人の心性を象徴するという趣旨の面白い文章を書いているので引用しておこう。

 

     江戸人は他界を考ふる程執念深くない。もつと淡泊で気がきいてゐる。其洒落な性情は薄気味の悪いものを滑稽化する。

     誰でも浅草に来て、あのベラボオに大きい提灯に魂消ないものは無いだらう。あれこそ江戸(東京)人の心の象徴だ。之を一番初め構案した男はどういふ積りだつたか、固より分らないが、兎に角これも信心の結晶と見てよからう。断食、百度詣りは余りに面倒くさい。彼等の信仰を表はすにはこの昴大な提灯が尤も適してゐる。生の迷執、死の恐怖、之あるによつて彼等はもとより仏前に相集まる。同時にこの児戯に類する企図の前に、並に、やがてそを顧みて哄笑一番する底の滑稽味に於て、彼等はまた一致したのだらう。

     提灯の外には、また素ばらしく大きなお供餅が飾られている。

     奈良の大仏も、諸寺の仁王も大きいには違いないが、恁んなに馬鹿々々しい誇大は、江戸の寺の大提灯を外にしては蓋し鮮ない。(「浅草観世音」)

 

 淡泊でありながら、洒落と信心を大提灯という形にする質実さを具えており、控えめや折り目正しさという都会人に特有の襞をそなえた心性を描こうとしたのが久保田万太郎の作品である。

 

 第三に、言葉の問題がある。失われた東京の姿や風俗を描くのではなく、心性を描くとは、畢竟するところ、言葉を洗練させていくしかない。それもそのはずで、描写するべき外的な対象などなにもないからである。その結果、ある意味西欧近代の文学にも似た、言葉による自律した世界があらわれる。

 

 確かに万太郎の作品は、東京下町の言葉がもとにはなっているが、戸板康二は「下町を世界にとった小説、戯曲の中で、ぬきさしならぬ必然性を持っているように見える特殊語のすべてに、実感があったかどうかは疑わしい」とし、「 欧文風の『そこにいる自分自身を見出した』が、万太郎の好んだひとつの文体だったのと同じように、古い東京語を、文章の資材として、かなり客観視しながら利用してもいたのではないか」(『久保田万太郎』)と書いている。

 

 また、戸板康二のような演劇人ばかりではなく、石川淳河上徹太郎吉田健一三島由紀夫など西欧近代の魅力と毒を身にしみて感じてきた文学者たちが久保田万太郎のよき理解者であったことは、彼らが万太郎と言葉の関係、彫心鏤骨ともいえる言葉の彫琢と造形によって自律的な世界が立ちあがることに敏感に反応したのだと思われる。代表として三島由紀夫の言葉をあげよう。

 

     劇作家としての氏は、しかし、ほかの西洋風を看板にした劇作家よりも、はるかに西洋くさい、といふのが、私のかねてから抱いてゐた意見である。知的教養の上の西洋風よりも、氏の頑固な個性の守り方、スタイルの操守は、一見古くさいものに見えながら、実はもつとも西洋風なものであり、そこに氏の深く秘されたハイカラの真面目があつた。それは日本の近代文学者の多くが、西洋に学びながら、西洋から取り逃がしてゐた本質的な要素であつたと思はれる。日本の戯曲は、文体を失つて久しいが、明治以来の戯曲で、真に文体を持つ劇作家は、正直のところ、森鷗外と久保田氏の他に、私は知らぬのである。(「久保田万太郎氏を悼む」)

 

 女優で演出家の長岡輝子文学座の初期のメンバーであり、それ以前にはフランスに留学もし、海外の作品を多く演出しているが、文学座を創設した三人のなかでは久保田万太郎の戯曲にもっとも感銘を受けたという。彼の芝居を見て連想されるのはシュニッツラーで、どちらの台詞も現在では維持できるような俳優がいないと生前のインタビューで応えていた。これもまた、舞台装置や設定に頼ることのできない言葉による自律した世界だけがあったことを意味していよう。

 

 私が久保田万太郎で連想するのは、むしろジャン・コクトーのような人物である。多彩な活動も共通しているし、詩を書こうが散文を書こうが絵を描こうが、あるいは映画を撮ろうが、どれにもはっきりとコクトーの刻印が押されているように、小説でも戯曲でも俳句でも筆跡でも久保田万太郎が書いたものには彼の刻印が押されている。要は二人とも根っからのレトリシャンなのだ。東京の下町などというくくりよりも万太郎の個性の方がよほど際立っている。そのことがもっとも明瞭にあらわれているのが万太郎の俳句だと言える。もはや特別に東京なり下町なりが歌われることもなく、久保田万太郎という地の上に言葉だけが浮かびあがっているような風情である。

 

 徳川夢声の『夢声戦争日記』にはしばしば万太郎が登場する。彼らはいとう句会の仲間でもあり、気のあった友人でもあったことがその筆致から窺われる。たとえば、二人でさんざん酒を飲んだ明くる日の昭和十七年の六月二十二日の記述では、玄関を出て行く万太郎の後姿が「何か寂しそうであった」と夢声は思う。あとで家人に聞くと、万太郎は寝る前に「俺はサビしいよ」と幾度も繰り返したという。「私は、何んと思ったものか、宗匠の布袋様然たる臍のあたりを、ピシャピシャと叩いたそうだ」というのが夢声の対応だった。

 

 また、戸板康二によると、「格好がつかない」という独りごとが、万太郎の口癖のひとつであり、「人と会っている時羽織の紐を無意識に結んだりほどいたりした。みんな、ひと見知りのはげしい、ある意味では孤独な万太郎の習慣で、気心の知れない仲間に、ひとりだけあずけられた形になるのは、おそらくたまらないことであったろう」と推測している。

 

 悲しみや怒りや喜びといった原色の感情ではなく、羞恥心や寂しさや恰好のつかなさといった現実との微妙な齟齬感が万太郎の俳句の基調をなしている。そうした情調が満ち満ちているので、ちょうど大雪の降った朝、すべての音を雪が吸収して街が静けさに覆われるように、万太郎の句では生な感情や喧噪は情調のなかに吸いとられて、静かな空間を形づくるのである。

 

 『夢声戦争日記』の同じ日、飲んだ明くる日の朝のエピソードを最後に紹介しよう。「どういういきさつで、ここへ泊まることになったんです?」と万太郎は不思議そうな顔をしている。朝飯を出すと、キチンと坐り直す。「オラクニナサイ」と夢声が声をかけると、

「いえ、あたしは育ちがいいから、食事は坐ります」

と言って笑った。

 

 

 

 

久保田万太郎三十句

 

神田川祭の中をながれけり          『草の丈』

竹馬やいろはにほへとちり/゛\に

春麻布永坂布屋(ぬのや)太兵衛かな

おもひでの町のだんだら日除かな

にじますもやまめもこひも夜の秋

種彦の死んでこのかた猫の恋

冴ゆる夜のこゝろの底にふるゝもの

いふこともあとさきになる寒さかな

風呂敷の結びめかたき夜寒かな

日向(ひなた)ぼっこ日向がいやになりにけり   『流寓抄』

懐手あたまを刈つて来たばかり

波を追ふ波いそがしき二月かな

杢太郎いま亡き五月来りけり

節分やたま/\とほる寄席のまえ

たゝむかとおもへばひらく扇かな

人柄(ひとがら)と藝と一つの袷かな

読初や露伴全集はや五巻

ゆく春や日和のたゝむ水の皺

雛あられ両手にうけてこぼしけり

古暦水はくらきを流れけり

泣き虫の杉村春子春の雪

弁末の煮ものゝ味の夜長かな

どぜうやの大きな猪口や夏祭         『流寓抄以後』

数珠下げていよ/\美女の寒さかな

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

鮟鱇もわが身の業(ごふ)も煮ゆるかな

ものゝ芽のわきたつごときひかりかな

女囚房雪の鏡をかけつらね       『季題別全俳句集』

春の夜や駅にとゞきし忘れもの

一めんのきらめく露となりにけり