アンブレイカブル

 フロアーの床にはいつまでたっても慣れないもので、もっともすでに十年以上フロアーの部屋に暮らしているのだが、ひとによっては汚いというものもあるかもしれない乱雑な、その実どんぶり勘定ほどには計算をし尽くした細々したものが配置されて、言い方を変えれば足の踏み場がなくなっていたので、なにか割れるものを踏みつけて危ないということはあっても、床で滑ることはほとんどなかった。

 

 ところが先日、見渡すかぎりのフロアーのなかで、しかも細いパイプの脚が四本ついただけの簡易椅子に、そのまま座れば問題はなかったのだろうが、無意識に悟りを求めているわけでもないだろうが、片方の脚を折りたたんで、半跏思惟像の形を取って、隙があれば天上天下唯我独尊とでも言い放ってやろうと思っている私は、いつものように堅く狭い椅子の上に折りたたんだ脚をのせて座ろうとした瞬間、摩擦係数の計算をするまでもなく、傾いた椅子にかかる荷重は垂直に床の上で安定するよりは傾きをさらに傾かせるべく働いて、唯我独尊というよりは転んでも一人。

 

 とはいえ、敬虔な心情が自己放下としてあらわれたのか、重力のなかにも神仏は宿り、転んだとはいうもののその過程は内村航平の演技の如く、床に寝そべった姿も転がったというよりは着地姿に似ていた。

 

 こんなことを思いだしたのも、数日前、人工的な切り通しが、逆方向から行くとだらだらと登り坂になっているのがはっきりとするが、下りのときには、快適さのみが勝って、下りが続く加速度を考慮に入れないことよりも快適さの方が勝って、後から振り返ると敬虔さよりも快楽が勝った結果が覿面にあらわれ、縁石にぶつかると、それこそ何十年かぶりに自転車でひっくり返った。にもかかわらず、敬虔さより快楽が勝っていたにもかかわらず、擦り傷ひとつなく、「魂が揺れるんです」となにかの映画のキャッチコピーにあったように思うが、「脳が揺れるんです」とは感じたものの、脳しんとうにも及ばず、これが快楽の結果だとすれば、神仏の加護などいうも愚かなこと、映画としてはさして面白くはなかったものの、ついでにいえばどんどん評判を落とし、残酷なものだと思いながらも、実際に作品を見ると、まあ、しょうがないかな、と思わないでもないナイト・シャマランの『アンブレイカブル』を思い返し、どんな高さから落ち、なににぶつかろうが、生き残るだろうと、つい、邪な思いに誘われる。