女たちの円居――是枝裕和『海街diary』(2015年)

 

 

 かつて、批評家時代のトリュフォーは、脚本の映画と演出の映画とを区別し、演劇の延長でしかないような脚本の映画の代表である旧弊なフランス映画を軒並みに非難した。もっともそれは自らが代表者の一人であるヌーヴェル・ヴァーグという新しい運動のための戦略的な立場であって、自分はアメリカ映画などと同じく、古き良きフランス映画を見て育ってきたのだった。立場こそ全く異なるものの、是枝裕和の映画を見ると、脚本の映画を感じる。圧倒的な映像の力はないが、細かな心配りが行き届いている。こう言うのは戦略的な立場からの貶下的な意味はなくて、よく練られた脚本というものは、すでに失われつつある。

 

 鎌倉の古い家に、三人の姉妹が住んでいる。父親は女を作って家を出てゆき、母親もまた家を飛び出して姿をくらませてしまった。三人を育てたのは祖母で、祖母が死んでからは、看護婦となった長女の綾瀬はるかが、妹二人を母親がわりに育て上げ、気を張って生きている。次女の長澤まさみは銀行勤めだが姉妹の中では一番奔放な性格であり、今ひとつ男を見る目がなく、酒癖も悪い。三女の夏帆は、一番おっとりしており、個人経営のスポーツ店に勤めているせいか、それほど社会との接点もなく、無責任でいられる。

 

 そんな姉妹のもとに、女を作って出て行った父親が死んだという知らせが入る。一番複雑な思いをするのは長女であり、次女と三女は実はそれほど父親のことを覚えていないのだ。父親は家を出てからも色々あったらしく、葬儀で、喪主である最後の妻とは血の繋がりのない、腹違いである中学生の妹、広瀬すずと出会う。気丈に振る舞っている彼女の姿を見て、「鎌倉に来て一緒に住まない」とつい声をかけてしまい、瓢箪から駒が出るように話は実現し、四人で過ごすことになる。

 

 

 鎌倉で父と娘といったら、どうしても小津安二郎を思い出してしまうが、小津映画にも何らかの葛藤、例えば娘の結婚があり、それが決着することによって映画が終わる、別の言葉で言えば、未練を残しながらこれまでと同じ環境を支えきれなくなるのだが、この映画では、それぞれに葛藤はあるものの、彼女たちの世界を壊すことは見事に回避されている。

 

 長女は父親がそうであったように同じ病院の医師と不倫の関係にあり、妻と正式に別れてアメリカに行くのだが、一緒に来てくれないかと頼まれるが、新しく任せられることになった終末期の患者を看取る看護の職に止まることにする。次女はあいも変わらず変な男に引っかかってしまうが、一晩泥酔してしまえば、さっぱりしたもので、特に引きずることもない。三女はスポーツ店の店主と仲がよいが、どのまで進んでいるのか、これから変化して行くのか最初から最後まで変わらない。新しく加わった四女は、かつては継母との間に確執もあったようだが、鎌倉に来てからはサッカー部に入り、男友達もできた。上の二人はパンティ・ストッキングを履き、下の二人はソックスを履いて、三人でいたときにあった不均衡は、四人となって完全な均衡を得る。映画といえば現状の変化、成長が欠かせないというのは一つの幻想であり、ある意味男性に偏向したテーマであり、安定を取り戻すという女性に特有の主題がありうることを、鎌倉という海と山に挟まれた夢のような土地で(私は特に鎌倉や江ノ島に特別な思い出があるわけではないが、江ノ島の形を見るだけで胸がきやきやする)幻想のように示している。