地獄の一丁目――森鷗外『百物語』(明治四十四年)

 

森鴎外 [ちくま日本文学017]

森鴎外 [ちくま日本文学017]

 

 

 『百物語』というと対のように思いだすのが芥川龍之介の『孤独地獄』である。どちらもいわゆる大尽と言われる人物の歓楽を尽くした上での無為を描いている。

 

 なおその上に、この二つの作品の間には、ある関わりがある。龍之介の『孤独地獄』は、母親に聞いた話として、幕末から明治初年にかけて今紀文と称せられた細木香以のエピソードを記している。ところで、大正六年から七年にかけて、鷗外は『渋江抽斎』の後、香以について短い史伝を書いている。鷗外はそこで龍之介に香以のことを尋ねている。

 

 同じくこの史伝のなかで、『百物語』に言及し、昔、私はこちらもまた大尽として知られる鹿島屋清兵衛のエピソードに基づいてこの小説を書いたと述べている。ついでに言えば、ここでも鷗外流のexcuseがなされている。『百物語』を書いたとき、貧乏書生が大尽の境界を伺うことは僭越だという批評があった。しかし、「人生の評価は千差万別である」。かつて鷗外の家にいた婢は花魁を人間のなかでもっとも高貴なものとしていた。花魁が王であれば、華族も官僚も野暮な客であり、良妻賢母も肩身が狭くなろう。結局、ひとの価値観は異なるというごく平凡なことを言っているに過ぎないが、あるいは『澁江抽斎』『伊澤蘭軒』といったあまり世間に知られていない人物について長大な史伝を書き続けていることについてのexcuseも含まれているのかもしれない。それはともかく、『百物語』『孤独地獄』『細木香以』はこの順序で発表された。

 

 『孤独地獄』はごく短い次のような話である。

 

 細木香以はまた大通と言われる人物であり、幕末の文人や芸人の間に知り合いが多かった。黙阿弥などは、『江戸桜清水清玄』で紀伊國屋文左衛門を書くのに香以をモデルにした。その香以が、あるとき、吉原の玉屋で禅超という僧侶と知り合いになった。僧侶といっても花魁となじんでいるので、表向きは医者だということにしていた。この二人が、人違いがきっかけとなり仲良くなった。あるとき、この禅超の顔色がすこぶる悪い。なにか心配事があるのかと問うてみたが、これといってうち明けることもないらしい。これはきっと遊び尽くしたものが陥る倦怠なのだろう、と香以は(あるいは芥川龍之介は)解釈した。すると、禅超は急に思いだしたかのように、次のようなことを言った。

 

 仏説によると、地獄は根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに大別することができる。おおよそ地獄というのは地下にあるものとされているが、孤独地獄だけは、何処へ行っても忽然としてあらわれる。目前にあるものが即地獄の苦難を現前する。自分は二、三年前からこの地獄へ墜ちた。すべてのことに永続した興味を抱くことができない。次々に対象を変えてみるが、それでも地獄から逃れることはできない。

 

 それ以来禅超は姿を見せなくなった。ただ、金剛経の疏抄を一冊忘れていった。香以が晩年零落し、下総の寒川に住んでいたとき、常に机の上にあったのがその疏抄だったという。最後に龍之介はこう付け加えている。

 

   一日の大部分を書斎で暮らしている自分は、生活の上から云って、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでいる人間である。また興味の上から云っても、自分は徳川時代の戯作や浮世絵に、特殊な興味を持っている者ではない。しかも自分の中にあるある心もちは、動もすれば孤独地獄という語を介して、自分の同情を彼等の生活に注ごうとする。が、自分はそれを否もうとは思わない。何故と云えば、ある意味で自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人だからである。

 

 私には無くもがなの一文だと思えるが、芥川にすれば書かずにはおれないことだったのだろう。

 

 『百物語』においては、冒頭で、「余程年も立つてゐるので、記憶が稍おぼろげになつてはゐるが」と書いているが、鷗外にとっては漢文の先生であり、『ヰタ・セクスアリス』では文淵先生として登場している依田学海とこの会で顔を合わせたことによって、時日が特定できる。依田学海はほとんど欠けることのない『学海日録』という日記を残しているからである。それによれば、明治二十九年、七月二十五日に百物語の記事が見られる。「廿五日。晴。炎暑やくが如し。汗出てやまず。歌舞伎新報社の招に応じて領国の花火を観、遂に墨水に至り、寺島村の喜多川荘に遊び、妖怪百物語をきく。終わりて園中の奇拵の装物をみる。これはいと興あり。されども児戯たるをまぬがれず。」とあり、小説では学海は途中で帰ったことになっているが、どうやら最後までいたらしい。

 

 作中の「僕」がこの会に出席したのは、写真を道楽にしている蔀君の誘いによる。百物語というのは、大勢の人が集まったなかで、百本の火をつけた蝋燭を立てておき、化け物の話をするごとに一本ずつ火を消していく。すべての蝋燭が消えたとき、本物の化け物があらわれるという。「僕」が参加したのは好奇心による。

 

 隅田川神田川が分岐する部分にある柳橋の船宿から、集まった人々は、吾妻橋、白鬚橋を通り木母寺まで舟で運ばれて行く。別荘で「僕」は蔀君にこの会を主催した播磨屋に紹介される。「年は三十位ででもあらうか。色の蒼い、長い顔で、髪は刈つてから大ぶ日が立つてゐるらしい。地味な縞の、鈍い、薄青い色の勝つた何やらの単物に袴を着けて、少し前屈(まへかゞ)みになつて据わつてゐる。徹夜をした人の目のやうに、軽い充血の痕の見えてゐる目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前の方向を凝視してゐる。」付き添っている女がいるが、こちらも非常に地味で、流行り物を取り入れて目立たないように心がけているらしく、「薄い鼠が根調をなしてゐて、二十になるかならぬ女の装飾としては、殆ど異様に思はれる程である。」

 

 「僕」の好奇心には、こうした催し物をするのがどんなん物であるかということも混じっていた。「百物語の催主が気違染みた人物であつたなら、どつちかと云へば、必ず躁狂に近い間違型(まちがひかた)だらうと丈は思つてゐた。」いま会ったように沈鬱な人物とは思っていなかったのである。

 

 江戸時代の戯作に繰り返しあらわれるような、陽性でも陰湿でもかまわないが、ひとの耳目を集め、その中心になって歓びを感じるような大尽とは異なり、それこそ意地悪で、悪魔的な目つきをしたむしろヨーロッパのデカダンスに染まったかのような人物があらわれている。「僕」は播磨屋のなかに生に対する傍観者の姿勢を見て取り、「他郷で故人に逢ふやうな心持」がしたというが果たして播磨屋は同感の挨拶を返してくれただろうか。傍観者といっても、鷗外の場合、軍医としては最高の地位に登り、文豪としての名も確立し、生活を持ち崩すこともなかった。「子供に交つて遊んだ初から大人になつて社交場尊卑種々の集会に出て行くやうになつた後まで、どんなに感興の沸き立つた時も、僕はその渦巻に身を投じて、心(しん)から楽しんだことがない。」というが、こうしたことはつまりは対世間的な反応であって、自分の生を傍観者として見ることとは異なる。

 

 「僕」は蔀君に播磨屋を紹介されるが、「此男は僕を一寸見て、黙つて丁寧に辞儀をした丈で」あり、作中で言葉を発することはない。結局「僕」は百物語の始まりを待つまでもなく、早々に帰ってしまい、二三日後に蔀君にその後の様子を聞いてみると、播磨屋も話が始まってしばらくすると、二階へ上がって蚊帳を吊って寝てしまったという。無言で徘徊する播磨屋という化け物がいる以上、すでに百物語という趣向の意味は根本から消え去っている。