退屈?な日常――前田司郎『不機嫌な過去』(2016年)

 

 

 なんで、どうして、を繰り返し、大人になることは毎日の繰り返しのなかで、感覚をすり減らしていくにすぎないと思っている女子高生の果子(二階堂ふみ)は、祖母と両親、それに新しく生まれた妹とともに豆料理の店に暮しており、スナックを経営している近所の一家ぐるみの友人の小学生の娘と夏休みの日々を暮している。なんで、どうして、と言い返すのは、なにか根本的な原因を知ろうとするためではなくて、むしろなんでだかわからない物事に関しての疑いを遮断しようとしているかのようだ。そんなある日、死んだはずの叔母、未来子(小泉今日子)がふらりとあらわれる。詳しくは語られないが、彼女は前科もちで、果子が生まれてすぐに北海道で死が確認されていた。

 

 正直なところ、単調な繰り返しにしか思えない日常に僅かな驚きが突き刺さって生になんらかの意味を見いだすというタイプの物語は、映画からアニメにいたるまで無数に題材にされていて、食傷気味であり、タイム・リープものも、平行世界ものもそのヴァリエーションだとすれば、手垢にまみれている。

 

 さらに、監督が演劇人であることを思えば、「別の世界」を求める果子の状況はもはや古典であるベケットの『ゴドーを待ちながら』そのままであり、槍のホンダという女性が、あらわれるのを見張り続ける我が子を喰ったワニや短い会話で空間を成り立たせていく手法は別役実、果子が唯一関心をもつ男性、山高帽をかぶり、トンビっぽい上着を着て、人さらいであり、革命家であるらしい人物などは唐十郎的である。

 

 監督の発明は、死んだはずの未来子を迎え入れる家族は、生きてたの、というくらいでさほど驚きを見せるわけでもないし、ある晩ふっと姿を消しても、特にうろたえはしない、果子が感じている退屈な日常と同時に、大林宣彦の『異人たちとの夏』のように、死者が戻ってきたとも思えるし、未来子が言うように生きていたのだとも思える、いるはずのない巨大なワニや人さらいや爆弾が共存し、実は退屈な日常からは浮き上がった漂うような空間をつくりだしたことにある。

 

 

 そして、舞台では表現できない、二階堂ふみの不機嫌な表情のクローブアップ、最終盤で、髪をあげると一瞬誰だかわからなくなる、実は変化に富んだ顔立ち、小泉今日子の、『あまちゃん』以降だろうか、もしかしたら樹木希林のような女優になるのではないかと思わせる、すっかり板についた少々やさぐれた雰囲気、更には海があり、川があり、橋がある品川の街が、漂うこの空間をしっかりとした具体性に結びつけており、映画として成立させる。