融解する街ーークレイジーケンバンド「夜のヴィブラート」(『777』所収)

 

777

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 鎌倉、横浜、横須賀は私にとって長い間、眷恋の地である。とはいっても、諸条件の折り合いがあって住むことはできないできたし、むしろ、住みたいというよりは、そこで育ちたかったといった方がよく、ユートピア幻想に近い。
 
 いかにこの願望がファンタズムに近いかということを示すのは、横須賀に至っては、一度しか行ったことがない。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で衝撃を受けた世代なので、横須賀は常に気になる存在だったが、もう何十年も昔、行ったときはスカジャンの店を数軒覗く程度で、街の骨格を知るにはほど遠いものだった。
 
 しかし、宇崎竜童もまた京都生まれで、幼少の頃に東京に移り住み、そしてまた、父親は船乗りを経たあと船具屋を経営しいた富裕な家庭の育ちだというから(その後父親の会社が倒産して辛酸をなめたようだが)、横須賀に対して私よりもずっと豊かで具体的なファンタズムを形成していたのかもしれない。それゆえ、実際に横須賀で成長した山口百恵という具体的存在と仕事をするようになったときには、内心小躍りしていたかもしれない。
 
 この三カ所のなかで一番頻繁に通ったのは、鎌倉である。もっともここ数年は行っていない。何回か行くと通り道も定まってきて、だいたい北鎌倉で電車を降りて、紫陽花寺や銭洗い弁天に寄ったり寄らなかったり、鎌倉までぶらぶら歩いて、小町通りにその頃は二軒あった古本屋を冷やかして、鶴岡八幡宮前の大きな通りに出ると、観光客が煩わしいのでお宮の方はへ向かわずに、海岸の方に歩き出し、しばらく行くと、右手に折れる道があるので、そこを折れて踏切を渡り、ずっと歩いていると割と大きな古本屋があり、本の数は多いのだが、なにしろ雑然としていて、積み重なった本を確かめていくとすぐに時間がたってしまうのだった。一通りその店を見て、そのまま先に進むと長谷寺で、時間がないときにはそこから江ノ電に乗るのだが、余裕があればそれから江ノ島まで歩き、夕暮れの海を眺めていると、なかなか甘美な気分になるものである。
 
 そんなわけで、鎌倉に特に文句があるわけではないが、私にとってはいささか文化的香気が強すぎる。言い方を変えれば、日常に足をつけるためのおもりになるものがなかなか見当たらない。おぼえているかぎり、コンビニもスーパーもなかったように思う。先日、たまたま藤沢周の『武曲』(「むこく」と読む。著者は確か北鎌倉の方に住んでいらしたと思う)という鎌倉の高校の剣道部を舞台にした小説を読んでいたら、高校生たちは大船に買い物や遊びに出ていた。大船の商店街は充実しているし(確か)、街としても悪くないと思うが、買い物やちょっとした遊びのためにわざわざ大船に出て、あの大きな観音像を見ることを思うとげんなりする。
 
 そう考えると、私のユートピア願望をたぶんもっとも満足させてくれるのは横浜だということになる。といっても横浜市駅周辺にはほとんどなにもないから、関内駅を起点にして球場や中華街から、線路をまたいでモール街などが収まる放射状に広がる一帯である。「横浜も関内までがハマのうち」というわけである。
 
 特に関内の中華街とは反対の側の街の大きな魅力は、新宿の歌舞伎町などのように、風俗店が一区画に押し込められることなく、商店街と地続きに並んでいることで、これは何十年も前のことになり、現在は条例が厳しくなっているようだが、黄金町や日ノ出町の方にまで足を伸ばすと、ほぼ下着姿の女性たちがあるものは無表情に、あるいは同僚たちとしゃべりながら、うだるような暑さのなかで汗ばんだ顔を外に向けていたことが思い出される。大学生ぐらいであった無知な私はそれが青線の残存であったことにはそのときは気づきもせず、ある一人の女性のいかにも肉感的であった組んだ脚のことしかおぼえていない。関内の商店街も独特で、質屋が異常といっていいほど多く、それもまたむかしながらの質屋ではなく、金とプラチナのその日のグラム単位の値段が表に出されており、ショーウィンドーに並ぶのはブランド品ばかりといういかにもいかがわしい店ばかりのなかに、開港以来の銘菓などといった老舗が入り交じる。
 
 伝統と風俗とが混在し、グローバルではないが異質な文化が混ざった横浜は、どんな音楽を取り込もうが、クレイジーケンバンドという刻印が押されていることで、いかにも横浜出身の彼らの音楽に似合っている。この曲にはライムスターも参加しているが、全然それによって曲の印象が変わらないところがすごい。
 
 この曲は横山剣菅原愛子のデュエットであるが、普通のデュエットとは異なって掛け合いではなく、ボーカルの男女二人がおそらくはスナックのママでもあろうか、別の女に自分の男をとられた女が、雨のそぼ降る恋敵の店の外にいて、扉のなかからカラオケかなにかで歌っているかつての男のヴィブラートをきかせた歌が漏れ聞こえるのに身もだえする女になりきる女唄であって、しかしながら、あの無骨な横山剣が女性になっても、また、いかにもデュエットで、男をとられた女の歌となると、場末感が出て貧乏くさくなるものだが、そうはならないのは、繰り返して聞いていると、実際にラテンの風味をつけられて歌われているのは、女の恨み節といった男女の小さな世界のことではなく、捨てられた女の「心の渇き」に直接的に結びついた、降りしきる雨のなかで「街が溶けて腐っていくわ」というヴィジョンの強烈さであって、世界が立ち上がって雨のなかで腐っていく。