地獄八景ーーパトリシア・ハイスミス『イーディスの日記』

 

イーディスの日記〈下〉 (河出文庫)

イーディスの日記〈下〉 (河出文庫)

 

 

 パトリシア・ハイスミスは、デビュー作である『見知らぬ乗客』がヒッチコックに、また、ルネ・クレマンによって『太陽がいっぱい』が映画化され、ミステリー、あるいはサスペンスの作家と見られることが多い。しかし、一般作品も書いており、『扉の向こう側』、『孤独の街角』や短編の多くは小説としかいいようがない。最近では、2015年にトッド・ヘインズによって映画化された『キャロル』は百貨店の売り子と客としてあらわれた優雅な年上の女性との恋愛を描いている。

 

 私はハイスミスが大好きなので、全作品とはいえないが、3分の2程度は読んでいると思うが、『イーディスの日記』は、一番集中的に読んでいた時期に買って、上下ある2冊本のビニールに詰めたものを、おそらくは20年ほど放置していた。あるときは引っ越しに紛れてどこにあるのかわからなくなったり、ハイスミスは、少なくとも私にとっては、ヒッチコックと同じように、相当に強い緊張を促すものであるために、気分が充実したときでないとそうそう読む気になれないのである。

 

 イーディスとその夫のブレット、それに息子のクリッフィーは、ニューヨークのアパートからニュージャージーの念願の一軒家に引っ越すことになる。ニューヨークからもさほど遠くない田舎でゆったりと生活できるし、息子の教育のためにもいいに違いない。

 

 夫婦は二人とも穏健なリベラルなジャーナリストで、自分たちの新聞を発行することもできた。隣人たちも友好的で、夫の伯父ジョージが病気の身で同居することになるが、それほど手間がかかるわけでも、口うるさい注文をするわけではないので、まずは順風満帆な新生活をスタートしたといえる。

 

 ところで、イーディスには密かな楽しみがあった。革張りの厚いノートに日記をつけることである。密か、といっても、特に隠して書いていたわけではない。夫も息子も他人の日記などに興味をもつような性格ではなかったのである。書くこともごく日常的な身の回りのことに限られていた。

 

 街の人々とのつきあい、新聞が徐々に軌道に乗ること、家族とのやりとりなど日常的なことが、淡々と描かれる。上巻はほぼなにごとも起きることなく終わるといっていい。ただ小説家としてのハイスミスの絶妙な手腕は、この間、特に時間に関わる記述がないにもかかわらず、1955年から1963年のほぼ十年間が経過している。少年であったクリッフィーは、すっかり青年となっているが、なにがやりたいのかわからない、仕事につこうともせず、朝から晩まで酒を飲んでいる無気力で皮肉な男になっていく。

 

 この作品が刊行されたのは1977年のことで、この小説は時間経過の記述がないままに、1955年から1970年代のはじめまで、つまり、50年代の冷戦のまっただなかからケネディー暗殺、ベトナム戦争の泥沼化、ニクソンウォーターゲート事件ベトナムからの撤退などのアメリカの政治状況を背景として描かれている。

 

 息子のクリッフィーに顕在化していたこの一家の破綻が決定的なものとなるのは、夫のブレットが子供といってもいいほど年下のキャロルと恋に落ち、イーディスに離婚を迫ったことにある。何ごとにも穏健な彼女はその申し出を受け容れる。しかし、家を出た夫は、すでに年老い、排泄も思うように始末できないことがある自分の伯父を引き取ろうとはしない。そして、イーディスの日記における息子はすでに、外国に赴任し、幸せな結婚をして子供までいる等々と事実とは異なったものとなっていたが、それ以外のこともより現実とはかけ離れた、虚構になっていく。

 

 ジョージは薬の過剰摂取によって死に(それがほぼクリッフィーによって行われたことは、イーディスにもわかっている)、イーディスが心から愛し、尊敬することのできた唯一の人物であった大伯母のメラニーが心臓発作で死に、ますます変調を来したイーディスは堕胎を肯定するような社説を書き、隣人とは口論し、街のなかで孤立していく。そんな彼女を前夫のブレットは精神科医に見せようとするのだが、イーディスは断固としてはねつける。そもそも伯父のジョージを離婚した自分に押しつけておいて、なんで前夫が今更自分の生活にちょっかいをだしてくるのかわからない。受け容れたら最後、白い服を着たロボットがやってきて結局は自分を精神病院に閉じ込めてしまうのだ。

 

 心憎いまでに巧みなのは、この小説がイーディスとそれに較べればほんのわずかだが、息子のクリッフィーの二つの視点からしか描かれていないことにある。一人称ではないが、いわば二人に寄り添う三人称が、二人の考えていることは垣間見せてくれるが、ブレットを含めたそれ以外の人物については、なにを考えているのかまったく知らされない。読者である我々は、イーディスの主張ももっともだと思いながらも、もしも、ブレットのいうことが正しいならば、そして彼女が孤立していることは確かであってみれば、はたして彼女の異常、あるいは正常をどこまでさかのぼれるのかわからなくなっていくのである。

 

 たとえば、まだ前半の部分で、イーディスが新聞に載せようとしたが、「あまりにも斬新的、あるいは非現実的すぎる」という理由で、仲間に反対されて掲載を見送ったアメリ平和部隊についての社説がある。それは、アメリ平和部隊が八歳から十歳の児童を連れて行くことを提案したもので、というのも、この年齢の子供たちには人種的偏見がなく、どんな国の仲間ともキャンプや冒険旅行を楽しむことができるだろうからである。そしてそうした制度が確立すれば、「捨て子や私生児、あるいは問題児たちも社会にその場所を見いだ」すことになるだろう、という正論のようでありながら、いざ実行する場合には多くの問題を生みだすようなある種の薄気味悪さが漂っている。

 

 「現実と夢の世界の差は、耐えられない地獄だ。」とイーディスは日記に書き付けるが、ほんとうに耐えられないのは、現実と夢の世界の差がない場所であることをハイスミスは見事に描き出している。