出来事のざわめき――中上健次『峠』(1976年)

 

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

 

 

 『平家物語』は整序されすぎているが、『源平盛衰記』や『太平記』といった戦記をはじめて開くと、海のなかに突然放り込まれたかのように、五感がすべて開かれているのを感じる。身体中の皮膚で水を感じ、海水の塩辛さを味わい、磯のにおいをかぎ、視線はいつもと違う角度で日の光を受け止める。
 
 ただ異なるのは、それが情報の海だということにある。いわゆる物語においては、決まった主人公の周りに物語を推進するのに必要な登場人物たちがあらわれ、必要がなくなれば消えていく。一方、戦記や歴史においては、登場する人物のすべてがそれぞれの物語を抱えているが、それがつまびらかにされることもあれば、なんら語られないままに消え去ることもある。我々はそうした無数の物語に一気にさらされ、それがどのような絵図を描くことになるかを注意深く感じ取らなければならない。
 
 「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを思った。」という冒頭の文章が暗示するように、物語はかすかではあるが、執拗に流れ続いており、耳鳴りのように、自らに固有の「症候」なのかもしれない。
 
 熊野という舞台を中心に書き継がれる連作の冒頭をなすのは、まさにこの全身を、全感覚を浸らせる羊水にも似た胎児の大洋的感覚であり、それを「岬」のように突き破ろうとする強力な暴力衝動でもある。それは男根的なものとは似て非なるものである。男根的なものとは欲望を局限し、ある一定の方向に流し、最終的にはそれを支配しようとするものだからである。
 
 ここにあるのは耳鳴りと間違えてしまうほど身近な出来事のざわめきである。このざわめきのなかからもっとも原初的なものとして浮かび上がってくるのは母親と秋幸との母子関係である。しかし、この関係はなんら具体的な記憶を呼び起こすものではない。場面として喚起されるのは、すでに母親が自分の父親とは別の男と一緒になっており、その連れ子である文昭と四人で生活している状況、「殺してやる」と母親をののしっている兄の声をふすま一つ隔てて文昭と聞いている情景である。その兄はいまの秋幸と同じ年齢で、首をくくって自殺してしまった。
 
 この小説で起きるのは、光子の夫である秋幸の土方仲間であり、元船乗りの安雄が古市を刺し殺してしまうこと、父親の法事で名古屋に住む一番上の姉が熊野に家族を引き連れて帰ってくる、その姉と下の姉の美恵と秋幸とで先祖たちの墓がある岬へと出向く、美恵が幼いころに一度治ったはずの肋膜炎を再発したのか、身体を衰弱させ、精神的にも平衡を保てなくなる、秋幸の実の父親が女郎に産ませたという伝聞と、死んだ兄がうろついていた新地の「弥生」という店にいる久美という商売女が年齢的に見れば、妹であるとも考えられること、そして秋幸が久美を「すべて、自分の血につながるものを陵辱しようとしている。おれは、すべてを陵辱してやる。」と思いながら抱くことである。
 
 しかし、これらすべてのことは、ざわめきとしてあるだけで、なにも説明してくれない。兄の死の原因も、なぜ安雄が古市を刺したのかも、久美が実の妹なのかどうかも明らかになることなく、秋幸も読者も出来事の海のなかに取り残される。すべてが萌芽であり、どこに向かっていくのか予断を許さない。