60年代のドン・キホーテーードゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』

 

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

 

 

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

 

原著は1972年に刊行された。
 
 題名に端的にあらわれているように、ポレミックな書であるかに思える。しかし、なにに対して論争を挑んでいるのかはさほどはっきりしない。欲望をパパ、ママ、ぼくのオイディプス的な三角形のなかに抑圧し、統制する精神分析がもっとも大きな敵となっていることは明らかなのだが、フロイトに対する言及はさほど多くないし、フロイトというとき、フロイト自身を指しているのか、それとも制度としての精神分析を指しているのかあまりはっきりしないのである。
 
 たとえば、シュレーバーに対するフロイトの分析は徹底的に批判されているが、フロイトの教義が個々に、全体にわたって検証されて批判されるわけではない。フロイトよりも、ファシズムを分析し、オルゴンなる生命エネルギーが世界には充満しており、それを集積、放射することによって病気を治療できると考えたヴィルヘルム・ライヒや、イギリスにおいて反精神分析を主張したクーパーやレインの名が盛んに引きだされることによって、いわば間接的に牽制されている。
 
 さらに曖昧なのは、「フロイトに帰れ」と主張しているラカンについてであって、皮肉っぽい揶揄や部分的な言及はあっても、正面から向き合おうとはしていない。ラカンにおいて重要な理論的構成要素をなすファロスや、去勢という概念にしても、欲望をオイディプス的な図式にあてはめるものだという批判にとどまっているように思える。
 
 また、資本主義が奸智に長けたものであることは繰り返し強調されており、消費社会における欲望の充足が肯定されているわけでもないのだが、欲望という言葉が充満し、それを抑圧するものが繰り返し批判されているのを読んでいると、その気になりさえすれば、どんな欲望でも満足させることができ、家族の規範などはすでに崩壊した、ポストモダンの現代の高度な消費社会のほうが相対的にいい社会なのかと思えてくる。
 
 ガタリの単独の著作は私は読んだことはないが、ドゥルーズに関するかぎりは、対象となる哲学者の著作を徹底的に読み込み、あくまでその哲学者の思考に添いつつ、そこから思ってもみなかった「逃走線」を引きだしてくるものだった。自らの哲学を前面にあらわしたのは、ガタリとの共著を除けば、『差異と反復』のみであり、そうした意味で、非常に禁欲的な、あえて言えば抑圧的な哲学者であった。さらに、確かどこかで、論争はなにも生みださないともいっていたように思う。
 
 1972年という刊行年のことを考えると、非常に60年代的な時代性の刻印の強い作品だと感じられる。60年代は欲望と反抗の時代であり、日本でいえば、若松プロの映画や、状況劇場などのアングラ演劇、サド裁判、肉体論の盛り上がり、高橋鉄などによる俗流フロイト主義の流行があり、アメリカではケネディやマーティ・ルーサー・キング牧師の暗殺とともに性の解放が喧伝された。
 
 このような文脈において考えてみると、ドゥルーズの著作のなかでは、そしておそらくはガタリとの共著のなかにおいても、『アンチ・オイディプス』はもっとも古色蒼然としており、たとえば、ノーマン・ブラウンの『エロスとタナトス』などの隣にあると、据わりがいい。ルイス・キャロルストア派を扱ったドゥルーズ単独の著作である『意味の論理学』をドゥルーズは自ら「論理的で精神分析的な小説の試み」だといったが、『アンチ・オイディプス』は同書にもっとも数多く引用されているニーチェやD・H・ロレンスやヘンリー・ミラーを読みふけった騎士が、欲望を武器にオイディプス的三角形を攻撃するドン・キホーテ的なテーマの小説の試みなのだと言える。