普遍論争ーーマーティン・スコセッシ『沈黙ーサイレンスー』(2016年)

 

 

原作、遠藤周作。脚本、ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ。撮影、ロドリゴ・プエリト.音楽、キム・アレン・クルーグ、キャサリン・クルーグ。
 
 スコセッシはニューヨークの出身であり、アメリカの原理主義的なキリスト教からは離れて育ったが、イタリア移民の子供であり、イタリア人区に育ったためもあるのか、少年のころはカトリックの司祭を目指していたという。
 
 そして、マフィア間の血みどろの抗争やアメリカ的な栄光と挫折の物語を描く一方で、イエス・キリストが普通人としての生活を送るという『最後の誘惑』にさらされる同名の映画の制作には資金面の調達が難航し、実現するのに20年弱の時間がかかっている。
 
 『沈黙』もまた、企画としては1991年から俎上にのぼっており、当初は出演者としてダニエル・デイ=ルイスベニシオ・デル・トロの名もでていたが、結局、『シャッター・アイランド』、『ヒューゴの不思議な発明』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の3本が先につくられることになり、出演者も大幅に変わった。当時の日本を再現するには資金がかかりすぎるために、ロケーションは台湾で行われたという。
 
 フランシスコ・ザビエルが日本で布教を行ったころからおよそ100年後、キリスト教はともかく、異国の風物を珍重し、ザビエルたちをも厚遇していた織田信長の天下はあっけなく終わり、時代は江戸幕府に入り、特にキリスト教と結びついたとされる島原の乱以後、キリスト教は厳しく禁じられていた。それでも禁制の網をかいくぐり、日本に渡航する宣教師たちがいた。そんななか、ポルトガルイエズス会に、日本への布教に旅立ったフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が棄教したという噂が伝わってきた。フェレイラ神父の弟子でもあったロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は、噂の真相を確かめるべく、日本に渡ることを決意した。
 
 訪れた日本では、禁制をくぐり抜けた信者たちもいたが、予想を超えた厳しい追及が待っていた。キリスト教徒だと疑われたものは、キリスト像をかたどった金属製の板を踏みつける、いわゆる踏み絵を強制されており、なかにはそれを拒否して惨殺されるものもあった。神父たちは二手に分かれたが、ガルペ神父は虐殺される信者たちをかばって殺されてしまった。ロドリゴ神父も捕らえられたが、待ち受けていたのは拷問や処刑といった自らをイエス・キリストに擬することができるある種の「恩寵」を感じさせるものではなかった。すでに踏み絵を踏み、棄教した信者たちを逆さ吊りにして苦しんでいる者たちのうめき声を聞かせ、神父の棄教を迫るという卑劣なものだった。そしてロドリゴとガルペの師であるフェレイラも、同じ精神的拷問を受けて棄教し、日本人の姿をし、日本人の妻と生活していることがわかる。
 
 しかし、この映画は、拷問や迫害されたものの殉教の映画であるよりは、キリスト教と非キリスト教との論争的な映画である。実際、遠藤周作の『沈黙』では、ずいぶん昔に読んだので、正確かどうかあまり自信はないが、神父の居所を密告しながらも、告解による許しを求めて神父について回るキチジロー(映画では窪塚洋介)が人間の弱さをあらわすものとして、前面に出ていたと思うが、映画ではそれほど重点を置かれるわけではない。むしろ、この映画で中心となっているのは、井上筑後守イッセー尾形)や何人も宣教師たちを扱ってきた通辞(浅野忠信)との議論である。
 
 神父は、もちろん、絶対的で唯一の神を信じているから、その教えを全世界に広めるのは当然のことだと思っている。一方、井上筑後守や通辞も頑迷で自分の考えを曲げない蛮族なわけではない。神父の言いたいことなどはすべてわかっているが、鎖国した状態で、キリスト教が社会的不満と結びついて、一揆などとなってあらわれることを恐れたうえでの禁制であるから、形式上でいいから棄教するように命じる。
 
 神父は、真理はローカルな慣習や信仰によって揺らぐものではなく、普遍的なものであるが故にそもそも捨てられるものではないと反論する。だが、そうした反論もまた、日本の権力者にとってはおなじみのものであって、棄教した元信者たちへの拷問を続けることは、ヒューマニティーという普遍性はないのかと問うているのだといえる。そうした意味で、キリスト教に対して日本の迫害者たちは神の死によって到来する「近代」によって反論しているのだといっていい。
 
 しかしながら、理性に従い、倫理的存在でもある人間像、そしてヒューマニティーは、キリスト教を経過した西欧を中心にしてはじめて普遍的なものとして認識されることもまた確かなのである。それゆえ、井上筑後守などの議論は、神父の信仰を揺るがし、棄教させたが、神父を信じていた農民たちが説得されることはないだろう。
 
 そしてまた、むしろ、人間性であろうと、絶対的真理の存在そのものが疑問視されている現代において、信仰や大義などの大文字の真理が有効となり得るかを問うている映画でもある。