借景としての床屋――三遊亭金馬『浮世床』

 

  これといった筋らしい筋のない落語がある。『浮世床』や根問いものなどがそれにあたろう。二人あるいはそれ以上の人物が会話を交わすだけの落語である。それだけになんとでもなる噺だといっていいが、師匠から教わり、許しを得てはじめて演じることができるという古典落語の伝統が保たれているせいか、それほど内容に相違があるわけではない。立川談志は『浮世床』に『女給の文』をつなげて演じているが、『浮世床』本体に改変はされていない。


 床屋に様々な人物が集うのは式亭三馬の『浮世床』と同様だが、落語のほうは、大きく二つの要素からなっていて、ひとつは将棋、ひとつは講釈読みである。将棋といってもただの将棋ではなく、洒落将棋で、一手指すごとにそれに引っかけた洒落を言わなければならない。

 

 角の横に金があがったときには「金閣寺の和尚」といった具合である。それ以外にも、最初の一手を指されたほうが、これは負けだな、と言ったり、王手飛車取りで飛車のほうが逃げたから、いつの間にか王が持ち駒になっているといった細かなギャグがちりばめられる。

 

 講釈読みは、隅で本を読んでいる者に声をだして皆に聞こえるように読んでくれと頼むのだが、姉川の合戦を姉様の合戦と読んだり、つっかえたり、文字の切り場所を間違えたり、本人は立て板に水だというのだが、立て板に餅という有様になる。


 私が聞き返したのは、三代目三遊亭金馬、五代目春風亭柳朝、それに先にも挙げた立川談志のものだが、いずれもこの二つの要素からなっていて、金馬のものだけが洒落将棋が後になっている。本来のさげは、代金を支払っていかないものがあり、床屋の主人が何者だと問うと、畳屋だという答え。道理で、床を踏みにきた(つまり、踏み倒しに)、というものだが、わかりにくいせいもあってか、どの演者も省略している。


 海賀変哲の『落語の落』によると、将棋に夢中になっている二人の煙管の雁首と雁首、吸い口と吸い口とを差しかえて、戸惑うのを面白がる部分や、自分の顎髭を抜いて富士山を描き、ついでに西行を加えようとしたら、もう髭が残っていないので、居眠りをしている者の髭を抜く、女にもてたのろけ話を聞いていたら、最後に夢のことを話しているのだとわかる部分などもあったという。さげと同様わかりにくいものであり、落語が伝統という枠を残しながらも、時代に適応しようとしたことがわかる。


 しかし、そうしたわかりにくさということを考えるなら、そもそも床屋がなぜ社交の場となり得るのかが、いまではよくわからない。その辺を簡潔かつ明確に示しているのが金馬だ。

 

 大きく様変わりをしてしまった仕事として床屋と風呂屋をあげた後に、昔は、髪を見るだけで身分や職業がわかったと述べる。大髻は侍、大銀杏は相撲取り、職人でも頭になると髪が違ったという。商人でも小僧と番頭ではそれぞれ見ればわかった。服装と同じように、髪の手入れというのは日常的な身だしなみに属することであったから、床屋がある種の社交場になったことが容易に理解される。

 

 その噺の運び方は見事であって、ちょうどヒッチコックの『裏窓』の冒頭で、写真を何枚か連続して見せることによって、主人公の職業やなんで現在ギブスをはめて自由な行動を奪われているのかを示したことを思わせる。また、江戸町人文化の借景としての床屋が立ち現れてもくる。