センス・オブ・ワンダーは未来よりも愛にーージャン=リュック・ゴダール『アルファヴィル』(1965年)

 

アルファヴィル [DVD]

アルファヴィル [DVD]

 

 

 

エリュアール詩集―Choix de poemes 1917-1952 (1969年)

エリュアール詩集―Choix de poemes 1917-1952 (1969年)

 

 

脚本、ジャン=リュック・ゴダール。撮影、ラウール・クタール。音楽、ポール・ミラスキ。
 
 モノクロ映画。主演のエディ・コンスタンティーヌはいかにもフランスっぽい名前だが、父親がロシア人であるため、本名こそエドワード・コンスタンティノフスキーではあるが1917年のロサンゼルス生まれであり、アメリカ人である。
 
 本来は歌手であり、ハリウッドで映画のための歌を歌っていた。ところが1949年にパリでエディット・ピアフオペレッタに出演したことから、あるいはアメリカにおいてはロシア系であることが抑圧を被ることであり、パリのより自由な空気に触れたためでもあるのだろうか、そのままパリに居着くことになった。そしてピーター・チェイニイを原作とする映画のハードボイルドな探偵役レミー・コーションを演じて人気者となった。
 
 映画関係者によると、エディ・コンスタンティーヌは流暢にフランス語を話したが、決してアメリカ人なまりを直そうとはしなかったそうである。つまりは「パリのアメリカ人」にとどまった。
 
 ハードボイルドはそれ以前からフランスで流行しており、レーモン・クノーボリス・ヴィアンといった作家たちも別名義でハードボイルド作品を発表していた。
 
 さらに、ハワード・ホークス監督と原作者レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロー(『三つ数えろ』1946年)、1955年ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ!』はミッキー・スピレインの原作でマイク・ハマーが探偵。ジョセフ・ロージーの『エヴァの匂い』(1962年)はハドリー・チェイスが原作の悪女ものであり、ヌーヴェル・バーグが認めた作家たちも次々とハードボイルドの映画化を行っていた。
 
 一方においてこの映画はSF映画でもある。SF映画としてはフリッツ・ラングの『メトロポリス』を原型としている。「メトロポリス」がギリシャ語の母と都市とを結びつけた単語(メトロ=ポリス)であるように、『アルファヴィル』もまた、+アルファのアルファに町を意味するvilleを結びつけたものであり、独裁的なディストピアが舞台になっていることも一致している。
 
 エディ・コンスタンティーヌはこの未来世界にハードボイルド探偵のレミー・コーションとして登場する。独裁国家の外側から友人を探しにやってきたのである。未来が舞台になっているとはいっても、なんら特殊効果が用いられているわけではない。ただ街灯のみがともっていまよりはずっとくらいであろうパリの夜と、当時はモダンであったであろう建物、そしてコンピューターをあらわす変形された声だけで十分未来をあらわしている。
 
 そもそも未来とはいまだ経験していないなにかであり、現実との異化効果によって生みだされるものだから、レミー・コーションがホテルに入り、カウンターで鍵をもらい、エレベーターから降りた通路を延々と歩き続けるワン・ショットの映像がすでに未来をあらわすに十分たるものとなっている。
 
 この独裁国家では、良心や道徳に関する感情や言葉は非効率だと管制され除去されている。なかでも愛などというものは一番危険な思想であり、妻への愛を主張するものは容赦なく処刑される。ホテルの引き出しに聖書のようにしまわれているのは、実は辞書であり、日々非効率な言葉は削除されていっている。
 
 社会を統治する意味論あるいは語彙部門を代表するコンピューターの音声は、最初はロラン・バルトに依頼されたそうだが、実現することはなかった。しかしながら、いま見ると、未来よりも愛のほうが不確かで「現実」を異化する。「非功利的な言葉」がどんどん空洞化され、話が通じなくなっているのが現状だからである。
 
 映画で引用されるのとは別なエリュアールの詩を引用すれば
 
 彼女の眼は光の塔だ、
 彼女の裸をもつ額の下で。
 透明さとすれすれに、
 思想の曲り角たちが
 耳をふさいだ言葉たちを取り外す。
 
彼女はすべてのイマージュを消す、
愛とそのしりごみする影たちを眩しがらせる、
彼女が好きなのはーー忘れることだ。

 

 
 彼女が好きな「忘れること」とは、もちろんつねにイマージュを更新することであり、自堕落に意味を脱落させ、思考を停止する頭の悪さとは正反対にある。