自由の幻想――トルストイ『戦争と平和』

 

戦争と平和(全6巻) (岩波文庫)

戦争と平和(全6巻) (岩波文庫)

 

(私は以前岩波文庫から刊行されていた米川正夫訳で読んだ。)

 

 ルイス・ブニュエルの映画『自由の幻想』は、人が談笑する社交の場が便器の上である一方、食事は個室でとられ、ビルの上から次々と人を撃ち殺す男が無罪になって褒め讃えられるといったまことに馬鹿馬鹿しいエピソードに富んでおり、嬉しいかぎりなのだが、題名となっている「自由の幻想」については、『皆殺しの天使』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』ほどには実感させてくれなかった。

 

 あるいは、トルストイの『戦争と平和』こそ『自由の幻想』と名づけるにふさわしい作品かもしれない。というのも、トルストイの全精力は、あげて戦争における「自由の幻想」を解き明かすことにかかっているからである。

 

 ディオゲネスは運動の不可能性を論じている者の前で動き回って見せた。同じように、「自由の幻想」を論じる者の前で、手をあげて見せることもできるだろう。自由に自分の意志で手をあげているというわけだ。だが、もしそこに障害物があったら、もし車が突然つっこんでくるようなことがあったら、もし自分の子供が誰かに連れ去られるようなことがあったら、手をあげているどころの騒ぎではなくなる。手をあげるという簡単な行為でさえ、ある程度の空間と、ある程度の安全の確保が必要である。自由とは人間にもともと与えられているのではなく、自覚的に求めないと獲得できないものなのだ。

 

 戦争とは無数の人間が参加し、しかも物理的に掣肘しあうことによって、互いの自由を削る行為である。ナポレオンやクトゥーゾフの個々の命令が戦況を決めるのではない。

 

 エーテルのようなものを想定しよう。無数の人間がなにかしら動くことで無数の波を送りだす。ナポレオンやクトゥーゾフも比較的大きな一つの波であるに過ぎない。『戦争と平和』は、死ぬ運命にある者が死に、結婚する運命にある者同士が結婚してしまう全4部が終わると、その後の彼らの生活の一齣を描くエピローグ第1篇が続き、エピローグ第2篇の歴史についての長い考察で終わる。

 

 そこで、権力についてこんなことが言われている。権力とは畢竟距離の問題である。その人物が現に起こっている事件に関与することが少なければ少ないほど、距離が離れていればいるほど、その事件に関して意見や、予想や、理由づけを表白する機会が多くなる。つまり、権力とは距離がもたらす相対的な自由さでしかない。そのかわり、権力者は出来事に直接に関与することはない。

 

 民衆の運動を権力が動かすというのは幻想でしかない。無数の波紋が巨大なうねりとなったとき、もはや権力者の遠くからの波紋では何ら影響を与えることはできないのだ。トルストイは自由の幻想についての認識を天動説から地動説への転回に例えている。

 

さよう、われわれは自分の被支配的状態を感じない。しかし、われわれを自由なものと仮定すれば、無意味な結論に到達するが、もし外界、時間、原因に支配されているものと仮定すれば、われわれは法則に到達する。(米川正夫訳)