二人の主人公――古今亭志ん生『鰻の幇間』

 

 

 桂文楽古今亭志ん生は非常に対照的な落語家である。文楽はレパートリーこそ少なかったが、それぞれの噺を純度の高い洗練させたものとした。圓朝原作のような長い噺はしなかったし、与太郎ものもほとんどしなかったのではないだろうか。


 志ん生は、圓朝原作の数席に分けなければならない長い噺だろうが、落し噺であろうが、人情噺であろうがなんでもこなしたが、出来にはむらがある。対照的な落語家であることの自然な帰結として、十八番である噺もきれいに別れている。


 文楽は、若旦那、幇間、盲人を主人公とする『明烏』『よかちょろ』『愛宕山』『つるつる』『心眼』『景清』などが代表作であり、志ん生ではぎらぎらした欲望や人間の不条理があらわになるような噺、『火焔太鼓』『らくだ』『二階ぞめき』『黄金餅』『お直し』『あくび指南』などが代表作である。ところが、両者の代表作として重なりあう数少ない噺のひとつに『鰻の幇間』がある。


 野幇間の一八が羊羹を餌になにかにありつこうと顔見知りの家を訪ねるがどこも留守ばかり。道を歩いていると、浴衣掛けの男が眼についた。どこかで会っているような気がする。声を掛けてみると、どうしたい、師匠、とやはり顔見知りらしい。しめた、とつきまとう一八に先方も根負けし、鰻でも食おうじゃないか、ということになった。

 

 連れ込まれたのは汚い店で、うまいうまいと調子を合わせて食べていると男は便所に立った。なかなか帰ってこないので、探しに行くと先に帰ったという。しかも、料金は一八任せだという。しょうがないので払おうと値段を聞くと異常に高い。高いはずで男は三人前の土産を持って帰ったという。

 

 泣く泣く払って帰ろうとすると、下足番は汚い下駄をもってきた。こんな汚い下駄を履くかい、今朝買った五円の下駄だ、あれはお供さんがはいて参りました。志ん生では、自分の下駄を履いていかれた一八が、じゃああの人の履いてる草履くんねえな、というと、紙に包んでもってっちゃった、と更に駄目押しをする。


 川戸貞吉によると(『落語大百科』)、文楽志ん生の解釈の違いでこれほど違うのか、と思ったそうだ。文楽はこの話のポイントを「芸人の寂しさ」だといったという。

 

 たしかに、師匠の教えを思い返すところもあれば、あの客を大事にしようと述懐する場面もあり、金を払うところでは「この十円も親から勘当されたとき弟がくれたんだ」と語り、冒頭の羊羹を餌にまわるところははぶかれている。後半、店の者に文句を言う部分は、誰が演じてもウケるが、「噺を陽気に演ってはいけない。あまりお客が乗ってきたら、クスグリを抜いて演れ」とも言っていたという。つまり、前半と後半はまったく異なった色合いをもち、店の者に文句を言うことで芸人の寂しさを表現する後半こそがこの噺の眼目だとしているわけである。


 一方、志ん生は客をあさる幇間の焼けつくような欲望で一貫している。したがって、まんまと土産や下駄まで持ち帰られた後半にしても、激しく激突した欲望の戦いにおいて敗れたわけであるから、むしろさばさばしたものであり、敵ながらあっぱれな奴だねえ、という言葉が生きてくる。要するに、文楽の一八は男に散々になぶられたあげく内省に入るのだが、志ん生は敵のなかに自分の姿を認めることで、まんまと一杯食わされた男をもこの噺の主人公としている。