オルダス・ハックリレー「(プルーストとベストセラー)」(翻訳)

 

失われた時を求めて(全10巻セット) (ちくま文庫)
 

 

 「文学の報酬」――馥郁として華麗で、文章の隅々にまで行き届いたものがある。題名がふくれ上がり、たまに入る金が重要になる――不自然にも!金が食物や衣類に変われば、高貴なものから不足で乏しくなる。我々――貧しくはあるが正直で、あるいは、知的でそれゆえに貧しい――「文学」の報酬を汗の結晶とすることは皮肉な攻撃をつけ加えることになる。しかし、文学の真の報酬は、ここでうらやましがっていることの千倍も一万倍のものを避けられずには達成できないものなのだ。


 結局、自分自身にいうように、我々は十分に知的で、ユーモアの感覚ももっている。なぜ我々はベストセラーの著者たちのゲームで彼らを打ち倒さないのだろうか。「健全な」恋愛小説やウィルコックス的な一巻をものにすることは打ち勝ちがたい困難であるはずはない。ただ試みることだけが問題である。


 天才とその「天才的な」作品は軽蔑され、誤解され、ベストセラーを書いて生計の資を得るものは虚構においてはよくある登場人物である。しかし、真の生活においては、存在するだろうか。いささかの疑いをもつ。三流のジャーナリストが通りのよい小説を書くということは数多くある。真の長所をもった作品と真に悪い作品を同時に書くものはほとんどいないし、聞いたことがない。ヘンリー・ジェイムズが余暇を利用してナット・グールドの小説を書くことなど可能だろうか。あるいはイェーツ氏が「笑いと君たちを笑う世界」を書くことによって詩人になるようなぜいたくがあり得ようか。どれほど懸命に努力したにしても、彼はその仕事を不可能だと理解しただろうということは確信できる。しかし、天才は例外的である。我々のように貧しく、正直な人間で、天才でもなければガルヴィスでもない、ある程度の知性を持つ教養と才能のある人間には関わらないことである。確かに、我々も忍耐力と巧妙さがあれば、いくつかの金の卵を生みだす文学上の鳥を頭から羽化させることができるかもしれない。しかし違う。もし自然が才能ある人間に梯子となるものを与えなくとも、教育はまっとうな人間には同じことをするだろう。するがままにまかせても、彼は健全な恋愛小説は決して書けないだろうし、その戯曲は千一夜も上演されなかっただろうし、韻はやすっぽい版で売られているようなものにはならないだろう。


 プルースト氏の魅力的な小説の読者なら、この本のなかでおそらくはもっともすばらしいエピソード、スワンが社交界の中心であるヴェルデュランの夕食の席で、不運な恋愛へと溺れていくのを自覚する様子をおぼえているだろう。ヴェルデュラン家は――英国で匹敵する者がいようか!――金持ちで、最上流とは言わないまでも社交界で活発に動きまわり、知的な衒いをもっていた。十分な蓄えのない社交界で交際したがる人間は、ゲームを保護し、動物園の動物のように標本をつくろうとする――二流の科学者、教授かなにか、天才的な子供や悪い画家には無関心で、ブルジョアの一員で、インテリゲンチャだとも思っている、この陰惨な仲間のなかで、スワンの公正なセックスに対する嘆かわしい弱さが彼をおびき寄せる――洗練された教養をもつスワン、貴族主義的なスワン、その知的繊細さは山のようになった羽布団のなかで、もみくちゃになった薔薇の葉でなければ眠れない王子のようである。プルースト氏は不満足な状況を描くのにも、繊細で手の込んだ技法を用いる。我々はスワンが教授の冗談をか弱く苦痛に満ちた様子で笑い、悪趣味の誇示にも皮肉にならないようにし、入りくんだ言葉や反復やあきらかな観念の労働の残酷さにはたじろぐ。


 文学や劇作のなかで実際に人気があるのは、我々の多くは、ヴェルデュラン家のなかにいるスワンのようなものだと感じる。我々は教育をうけ、それは幸運であることもあれば、不運であることもある。遠慮や慎みを旨としていても、ベストセラーや舞台の成功に常に、また深く衝撃を受ける。我々の繊細な心的な素質は乱脈な情緒に陥りがちである。塩が傷口にすり込まれるように、明白なものが我々にすり込まれ、我々は縮みあがる。実際、我々の感受性があまりに優しすぎるのかもしれない。ワーズワースが『叙情的バラード』の序文で言ったように、「人間精神はいちじるしく暴力的な刺戟なしにも興奮し、彼は知りもしない非常に微かな美や威厳をもつはずであり、それ以上を知らなくとも、自分がその可能性を有しているように、高揚する。」しかし、人間は、甚だしく暴力的な感情からではなく、どのようなものであれ、明らかで直接的な感情から高揚することもあれば、萎縮することもある、結局のところ、彼はハイブロウとなるだろう。現在のところ我々は、あまりの多くの人間が一般的な人間よりもずっと高い位置につこうとしているのをみている。


 しかし、これは我々の主題からの脱線である。我々が自ら問わねばならないのは次のことである。スワンはヴェルデュランを真似したら、露見を免れただろうか。上流、あるいは中流の人士はその自然な疑念を押さえつけ、嫌悪に打ち勝ってベストセラーを書くだろうか。非常に疑い深いように思える。道徳的な努力に成功したところで、恥ずかしがり屋の男が通りで服を脱ぐような試練をしたとしても、安っぽい感傷への不愉快さをどうにかできたとしても、皮肉な眼をなんとか押さえつけられるだろうか。いいや、物事をうまくするには愛情と確信がなければならない。そのカテゴリーのなかではうまくいき、買ったものには評判になるかもしれないが、それらは成功はしないだろう。愛や確信は作品のなかに入り込み、愛と確信はまさしくハイブロウが入れることのできないものなのだ。文学の光り輝く報酬は地平の彼方に蜃気楼のように立ち、誘いながら手には入らないものである。


1920年3月12日 マルジナリア