指定と反撥を越えて――桂三木助『加賀の千代』

 

CDブック 三代目桂三木助 落語全集(全1巻)

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  加賀千代女の有名な句に「朝顔につるべ取られてもらい水」があるが、この噺のなかで桂三木助が説明しているところによると、本当は「朝顔やつるべ取られてもらい水」なのだという。調べてみると、「朝顔や」の方はのちに本人が直したらしい。いわば決定稿である。


 そういえば、幸田露伴芭蕉が関わった歌仙集である「冬の日」木枯しの巻、芭蕉本人の「牛のあと吊(とむら)う草の夕ぐれに」という句の評釈で、「に」の一字には二つの意味を持ちうると解いている。ひとつは指定の意味で、「~に向かって」や「~にあてて」のように対象を限定する意味である。

 

 もうひとつは、「釈迦に説法」や「月夜に提灯」のように反撥の意味を持つこともある。露伴は、芭蕉のこの句が、「に」の二つの意味をうまく融合させて、言外の妙をだすことに成功していると評している。

 

 あるいは、千代女が「に」を「や」に変えたのは、意図せざるところで反撥の意味をはらみ、朝顔などにつるべを占領されてしまって邪魔でしょうがない、とまさか解釈するものはいないだろうが、俳句は短いだけに一文字の働きも大きくなって、考えれば考える程そうした反撥の意図が入り込んでしまうことに不安を感じたのかもしれない。あるいは、そのことをわざわざ説明した桂三木助もまたそうした不安をかすかに感じていたのかもしれない。


 この噺も『穴どろ』などと同じく、大晦日金策の噺である。常のごとく、というべきか、大晦日の支払いはどうするんだよ、と亭主が女房に責められることからはじまる。亭主はお正月に凧をあげることを楽しみにしていたり、借金取りは死んだふりをしてやり過ごすか、などとなんら具体的な方策をもっていない有様なのだ(もっとも死んだふりは過去に一度経験があるらしい)。

 

 そして、これもまた例によって知恵をだすのは女房である。仕方がない、井上のご隠居にお金を借りてきな。ご隠居は親戚でもなんでもないのに、どこか気性が合うのだろうか、亭主を随分とかわいがってくれる。なんだってかわいく思うことがある、人間だけではない、朝顔をかわいがる人もいるんだからと、引き合いにだされるのが加賀の千代女で、「朝顔や」の句が引かれるのである。

 

 8円5,60銭あればどうにかなるから、20円貸してくださいといってきな、と女房。いつも細かい金をちょこちょこと借りているから、今回も同じようなことだろうと向こうに思われ、値切られては帯に短したすきに長しでかえって困る、多めにいっておけば、半分しか貸してくれないとしても、すべての払いをしても少しは残る、加えて義理をかけるために饅頭をお土産にする、と女房は知恵を付けて送りだした。


 落語の世界ではたいてい女房の知恵は有効に働くもので、今回もご隠居のところに頼みに行くという着想はよかったが、20円と申し出た亭主は、すぐ差し出すご隠居に、値切られるつもりで来たものだからもごもご言っていると、足りないのかい、とどんどん金額は増えていき、本家に連絡して金をもってきてもらう、という話にまでなってしまう。

 

 ようやく正直に駆け引きの話までして、10円を貸してもらう。やっぱり朝顔だ、朝顔やつるべ取られてもらい水、といって亭主は帰ろうとする。待ちなさい、いま妙なことをいったな、はてな、どっかで聞いた句だ、わかった、加賀の千代だ、いいや、かかの知恵。


 女房の知恵はご隠居の愛情まで測ることはできなかった。同じように、千代女の句が、「朝顔につるべとられてもらい水」であったなら、指定と反撥の駆け引きのほうに噺のテーマが移っていってしまったかもしれない。三木助にしてもそれは本意ではなかっただろう。それが証拠に、ご隠居のほうも、ずっと人口に膾炙しているはずの「朝顔に」は眼中になく、間髪を入れず「朝顔や」と繰り返すのである。