反快楽的グルメ・エッセイーー内田百閒『御馳走帖』、小島政二郎『食いしん坊]

 

御馳走帖 (中公文庫)

御馳走帖 (中公文庫)

 

 

 

食いしん坊 (河出文庫)

食いしん坊 (河出文庫)

 

 

 

バルト、〈味覚の生理学〉を読む―付・ブリヤ=サヴァラン抄

バルト、〈味覚の生理学〉を読む―付・ブリヤ=サヴァラン抄

 

 

 アメリカの料理エッセイストM・F・K・フィッシャーは1937年のエッセイ集の序文で広く食について書かれた本を六種類に分類している。現在でもおおよそ状況は変わっていないのではないだろうか。もっともブリア=サヴァランは特権的な位置にあり、意識してしまうとすると、真似しようとしなかろうと彼よりも劣化したものを示すことができるだけだ。
 
 食べることについて書かれた本には二種類ある。ブリア=サヴァランを真似しようとしたものとそうでないものである。真似したとしてもその機知を奇抜さに、愉快な逸話を退屈な思い出に変えるていどで、意識的に真似しないときには、繊細であるべきところで粗雑で、射貫くような観察よりは無愛想な統計を選ぶことになりがちである。
 
 また、なにを食べるかについての本がある。こちらにも二種類あり、前者はレシピが書かれたものである。未消化な事実の寄せ集めであることが多く、実用的で、濡れてもいいような表紙や台所に持ち込めるようにソースのような色の紙を使ってあり、分量や食物の評価からはじまり、病弱な者への配慮で終わる。
 
 他方は、打って変わって簡潔で、クリーム色や光沢のある紙を使った非実際的な装幀であり、当世風の版画による挿画まである。それらは食卓のよろこびについての機知あふれる哲学があふれている。それらは通常フランスの本である。前者とは異なり、実用性には劣るが、より楽しいものとなっている。
 
 もうひとつ、非常に興味深い主題、誰が食べるかについても二種類の面倒な区別がある。一方は、熱心な出版社によって少なくとも半年に一度はカタログの「回想」の部分にそっと載せられるような本である。そのページはよく知られた名前にあふれ、トリュフ、シャトーディケム、鶉などのうっとりするような香りが各章から立ちのぼっている。モンテ・カルロのバルコニーに無頓着な気取りをもって座り、三人の王子、一人の億万長者と差し向かいで話し、ロンドンで愉快な祝杯をあげる、
 
 あるいは、黙々と食べ続ける閣僚たちでいっぱいになったジョージ王朝風のダイニング・ルームで、エピグラムなるまで繰り返された言葉が行き交う。このジャンルは非常に衰えているが、よく売れると言われている。
 
 誰が食べるかについてもう一種類の本は、通常、自称グルメによって書かれている。オックスフォード近くの趣のある古い宿屋やらカンヌ近くの趣のある古い宿屋に立つ著者の写真が載せられる。生真面目、かつ厳正な権威によってボルドーブルゴーニュの問題、カクテルの野蛮さについての恐怖などあらゆる疑問について見事な確信をもって回答する。言うまでもないだろうが、それらの著者は若く、知的な楽しみや歓楽には事欠かず、自転車で食べ歩きをしている。(『食べるという技芸』)
 
 日本にあてはめてみると、「なにを食べるかについての本」二種類のうち前者は、料理の手順やできあがりがいちいち写真で再現提示される類のレシピ本があてはまるだろう。後者は実用性では及ばないが、より楽しく、食についての哲学や機知が感じ取れる玉村豊男小泉武夫の著作などがあてはまろうか。
 
 「誰が食べるか」に関する二種類の本の前者については、日本では少なくとも明治以降には社交界がなく、自伝を書くという伝統も確立されていないために、著名人とさまざまなソースの匂いが入りまじってそれを描いた人物が生きた時代の香気を立ちのぼらせる類の本にはめぼしいが、内田百閒、小島政二郎吉田健一東海林さだおの食にまつわる文章などは、特に物珍しいものが食べられているわけではないのに、彼らにしかありえようのない食に対する実存的な姿勢が見事にあらわされている。後者は、ミシュランであるとか、山本益博であるとか、またラーメン店やB級グルメを食べ歩くタイプのガイド本があてはまる。
 
 「食べること」について書かれた二種類の本というのが、実は一番わかりにくい。ブリヤ=サヴァランを真似しない「無愛想な統計を選ぶ」本とは、さしずめ、『味覚の生理学』というブリヤ=サヴァランの本の題名を文字通りに受け取り、機知や逸話なしにもっぱらヴィタミンの効用や栄養について「科学的に」取り扱う本があげられる。
 
 それではブリヤ=サヴァランを真似るとはどういうことなのだろうか。ブリヤ=サヴァランの本は従来『美味礼賛』という邦題で知られていたが、原題は『味覚の生理学』という素っ気ないもので一八二六年というロマン主義とその楯の両面である実証科学(いまや科学だけが信頼できる価値であり、すべてを科学に還元してしまおうとする強迫観念に至る)の最盛期に刊行された。
 
 とはいえ、この著作は空疎な観念とも、食にまつわるすべてのことを科学に還元してしまおうとするような生硬さからも一線を画している。というのも、この本の大きなテーマのひとつは、食にまつわる快楽を探求することにあるからである。味覚というものは、諸感覚のなかでもっとも多くの楽しみを与えてくれると述べたうえで、ブリヤ=サヴァランは食の快楽を次のように列挙する。
 
 一 食べる快楽は、節度をもって楽しめば疲労を伴わない唯一の快楽である。
 二 この快楽にとって時機・年齢・境遇の区別はない。
 三 それは少なくとも一日一回かならずやってくる。たとえそれが一日に二度三度となろうとも大して不都合なことにはならぬ。
 四 それはすべての他の快楽とまじることができる。他の快楽がない場合はわれわれを慰めてもくれる。
 五 その印象は他の快楽の印象よりもながもちするし、また意志に依存する度合が高い。
 六 食事しながら感じるのは、名状しがたいある独特の安逸感である。ものを食べることによって、われわれは消耗を回復し命を延ばしているのだ、と本能的に意識するところからこの安逸感は生じてくる。(松島征訳)

 

 
 快楽というのは個人的になり、倒錯しがちなものなのだが、バルトも言うように、ブリヤ=サヴァランはなぜか「健康な」合理性のうちにとどまっている。
 
 その点、非合理的であり、非快楽的であり、反グルメ的なのが内田百閒や小島政二郎の食べものエッセイである。百間が鰻重を好み、鰻をどけてたれのかかったご飯だけをおいしくいただいたというエピソードは有名だし、知人、友人などからどれだけ御馳走を饗されても、そこで食べることによって、下手にお腹いっぱいになってしまったりすると、家で食べるいつもの食事がまずくなってしまうから、ことに予定にないような供応は嫌った。
 
 小島政二郎立川談志に先生と呼ばれていた数少ない人物のひとりで、芸事にも通じていた。食べものについても造詣が深いのだが、この先生、お酒をまったくたしなまれないので、酒談義は甘いもの、特に時代的に仕方がないが、和菓子に振りかえられている。さらにはこの先生、昼食、何十年にわたってスパゲッティを食べ続けていたという非常に保守的な面も併せ持っていた。恐ろしく先鋭的で批評的な側面とずぼらとしかいいようのない一面とが共存している。
 
 バルト的にいうと、味覚に戯れる快楽の他方には、生活習慣やある種の味覚に固執してやまない悦楽の食事があって、内田百閒や小島政二郎もそういった悦楽のほうが目立つのである。私はといえば、尻馬に乗るわけではないが、食欲に関しては快楽よりは悦楽に傾きがちである。