幻想としての女性――尾崎紅葉『三人妻』

 

三人妻 (岩波文庫)

三人妻 (岩波文庫)

 

  吉行淳之介の『暗室』を再読したとき、どこかで読んだおぼえのある話だと思い、しばらくたって尾崎紅葉の『三人妻』だと気づいた。

 

 まったく異なったタイプの小説家なので、影響関係は想像しにくく、おそらくは偶然なのだろう。文体は似ても似つかないし、吉行淳之介に特有の肉感的ではありながら抽象的でもあるイメージの提示の仕方などは尾崎紅葉には想定もできなかったに違いない。だが、三人の女と妻をめぐる小説の構造はよく似ている。

 

 『三人妻』の主人公余五郎は、明治維新のどさくさと、それ以降の外国との貿易で巨万の富を築くと、商売の肝心なところ以外は股肱の部下たちに任せ、自分は郊外の豪壮な屋敷で悠々自適な生活を送っている。そんな与五郎が、あるいは策を弄し、あるいは金にものをいわせて三人の女を次々に妾にしていく。

 

 一人目は才蔵という柳橋の芸者である。彼女は容姿が優れているだけではなく、芸事も達者であり、客あしらいもうまい売れっ妓である。多くの客が彼女を手に入れようとするが、なびくことがない。菊住という恋人がいるからである。余五郎もまた金の力で才蔵を従えようとして失敗する。そこで、菊住のことを恋しく想っている小〆という芸者を買収し、二人の仲を裂こうとする。菊住は人情本にでもでてくるような意志の弱い男で、小〆からの誘惑をはねつけることができない。気の強い才蔵は、菊住の裏切りに報復するかのように余五郎の妾になる。

 

 二人目はお角(後に紅梅と呼ばれる)という女である。彼女は余五郎と同じく、明治維新で莫大な富を築いた雪村という政商が、身分の高い者たちだけを相手にした倶楽部のような場所で侍女を務めている。彼女を気に入った余五郎は、譲るのを拒む雪村の眼をかいくぐるようにして、なかば強引にお角を自分のもとに連れ去る。

 

 三人目はお艶という余五郎の郷里で琴の師匠をしている女だ。彼女は青年時代の余五郎があこがれていた娘の末の妹で、貧しかった昔の余五郎のことも知っているので、誇りがあって頑なな姿勢を崩さない。しかし、余五郎は金の力で県会議員を動かして義理に縛り、東京に出て芸をみがけなどと言いくるめて結局は妾にしてしまう。

 

 三人の相違は作中で「お才は酒の酌、紅梅は床の、お艶は茶漬の給仕」と語られている。こう語っているのは余五郎の本妻のお麻である。そう、余五郎には三人の妾とは別にちゃんと本妻がおり、『三人妻』は実は四人の女をめぐる小説なのである。

 

 お麻はかつては湯島天神の境内の矢場にいて、左の腕に蜘蛛の刺青をして、蜘蛛の如くからめとった男の血を吸いとるような女だった。長年連れ添って余五郎のことがよくわかっているのか、嫉妬の感情をあらわすこともなく、三人を評するのである。このお麻は、余五郎が三人の女を次々にものにする前編にはほとんど登場しないが、後編ではある意味中心的存在となる。

 

 というのも、三人それぞれの思惑が絡んだ綱引きになっていくからである。お才は余五郎からもっとも距離が遠く、いざとなったらまた芸者になればいいというくらいに考えて、昔の愛人菊住との仲を復活させる。そして、お艶には余五郎ただ一人の子供が生まれるという変化が起きる。紅梅も子供を欲しがって薬などを飲むのだが効果はない。そこで、お麻に取り入ってお艶を中傷し、二人の仲を遠ざけることに成功する。おっとりしていると思われた紅梅だったが、実際にはいちばん陰険だったのである。

 

 終盤近く、余五郎が死んだあと、紅梅の策略があらわになり、紅梅は暇をだされ、お艶が余五郎なき葛城の家に子供ともども引き取られることになって小説は終わる。四人の女性は類型的と言えば言えるが、男性のもつ女性性への幻想を構造的に分析したものだと考えると興味深い。三人の愛妾はそれぞれ友人としての、性的対象としての、母親的存在としての女性をあらわしている。そうなると、妻のお麻はすべてを呑みこむ地母神的な存在だと言えようか。