林檎についてーー恩田陸『夜のピクニック』

 

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)

 

  いまやはや二十年以上前のことになるが、小劇場演劇が盛んだった折、クライマックスになると雪や雨が降り、これは恐らくは状況劇場の影響でもあろうが、屋台崩しへとなだれこむ芝居が多かったものだった。それとともに劇的状況が一気に拡大され、雪や雨や屋台崩しは劇場という閉ざされた空間が外の現実に向けて開かれたことを示しているわけである。

 

 逆に、ここ十年ほどの間、「ミステリー」の分野で一定の割合を占めるにいたったのは、深淵で社会的広がりをもつかに思われた謎が、切実ではあるが身近な問題に収斂する手法である。

 

 しかし、実際は、過剰な観念が行き場のないまま登場人物の間を循環する唐十郎の劇空間があって始めて屋台崩しが有効に働くように、謎の個人的問題への収斂も恩田陸北村薫といった人の手によって始めて説得力をもつ表現になったと言える。

 

 『夜のピクニック』には、仲のいい男友達の関係を述べた次のような文章がある。「そこに林檎があるとわざわざ口にしなくても、林檎の影や匂いについてちらっと言及さえしていれば、林檎の存在についての充分な共感や充足感を得られるのだ。むしろ、林檎があることを口にするなんて、わざとらしいし嫌らしい。そこに明らかに存在する林檎を無視するふりをすることで、彼らは一層共感を深めることができる。そのことを、二人は誇りにすら思っていたのだ。」

 

 うまい例えだが、林檎の存在が互いにわかるだけで、コミュニケーションにまつわる危機的瞬間は既に過ぎ去っている。つまり、ここにあるのはコミュニケーションの<成立>ではなく、スポーツのように安定した<関係>をいかに有効に機能させるかである。事実、この小説はある和解によって終わっているのだが、それは力ずくで勝ち取られたものでもなければ、論争で妥協点が見いだされたのでもない。始めからあった両者の接点、すなわち林檎の存在を互いに認め合うことでもたらされる。

 

 この関係は、また、作者と読者との関係でもある。『夜のピクニック』は、明らかに、スティーヴン・キングの『死のロングウォーク』を下敷きにしているが、暗澹たる未来のディストピアや残酷さを完全に抜き去り、あたかも無視するような素振りを見せながら、学生生活の一行事という牧歌的な設定のなかで、キング作品の一要素であった少年の成長物語を全体的な基調とすることで、確実に林檎=キングの存在を読者に伝え、共感と充足感を与えようというなかなか巧妙な手段が取られている。