豪傑と愚鈍さ――『義経記』

 

現代語訳 義経記 (河出文庫)

現代語訳 義経記 (河出文庫)

 

 

義経の周囲 (徳間文庫)

義経の周囲 (徳間文庫)

 

  森田草平から聞いた話として大佛次郎が書いているが、明治大正のころまでの旅芝居や村芝居では、義経を舞台にださないと観客が来なかった。

 

 仙台萩でも忠臣蔵でも義経をだす。なんの芝居の何幕からの舞台であろうが、まず義経が登場し、名乗りをあげて大喝采を浴びる。そして、おもむろに左右を見やり、「せっかく出でて来たれども、さしたる用もあらざれば奥に入りて休息到さむ」と再び喝采を浴びながら退場するのだそうである(『義経の周囲』)。

 

 こうした人気が生みだしたのが『義経記』だが、ここでの義経はまるで颯爽としたところがない。『平家物語』で語られたいくところ可ならざるはあらずといった戦いの様子は、「御曹司寿永三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八嶋、檀浦、所々の忠を致し、先駆け身をくだき、終に平家を攻め亡ぼして・・・」と簡単に触れられるにとどまっており、あとはただ逃げ回るだけなのだ(その上での後退戦はあるが)。一言で言えば、てんで意気地がないのである。

 

 頼朝と義経の不和の原因についてはいくつも説があるようだが、兄弟とはいえ生まれ育ったところも違い、行動を共にすることもなかったこと(『義経記』では一度対面するだけである)を思うとさほどまで遠慮し、拳々服膺すべきなのかと特に贔屓ではなくともじりじりするのではなかろうか。

 

 実際、有力な僧である勧修坊は、法皇の宣旨をもらい、四国九州を従えて、日本を二分するがいいと勧めるのだが、はかばかしい返答をすることもなく義経は姿を消してしまう。

 

 しかし、戦勝に次ぐ戦勝から、逃亡へのこの変化は、実際の出来事がどんなものであったかはともかく、中国に典型的な凡庸なリーダーがはじめて物語として定着したことを意味しているようにも思える。『平家物語』の頼朝は、物語の主要な人物ではあるが、都を離れているためか、人物として曖昧で、曖昧ななかから権力が放射されているのに無人称の不気味さがあって、讒言する梶原景時がいなかったとしても、この権力はやがては義経に及んだような印象を受ける。

 

 一方、『義経記』の逃げ始めた義経は、武蔵坊弁慶常陸海尊伊勢三郎佐藤忠信などと個人的な信頼を築きながら、自分自身は『水滸伝』の宋江や『三国志演義』の劉邦などのような愚鈍と見まがうほどの大将へと変わっていく。伝説の軍書である『六韜』『三略』を習得して戦術には通じているはずなのだが、その方面でも力を発揮することはない。

 

 中野重治の詩「豪傑」では「つらいというかわりに敵を殺した/ 恩を感じると胸のなかにたたんでおいて/ あとでその人のために敵を殺した/ いくらでも殺した/それからおのれも死んだ」とあるが、死ぬことは詩と同様であっても、義経は豪傑であることを弁慶らに任せ、別のものに変貌する。義経は、もちろん、修辞上の通例ということもあるだろうが、仲間の前でとにかくよく涙を流す。そうした意味では自ずからにじみでる人品骨柄こそ何度も言及されるが、権威や近寄りがたさとは無縁であって、そうした大将でありながら無防備な姿こそ人々に愛されるゆえんなのだろう。