夫婦というときめき――古今亭志ん生『替り目』

 

  ロバート・ルイス・スティーブンソンが指摘するところによると、シェイクスピアの芝居にはフォルスタッフを除けば結婚していない登場人物はいないという。もちろん、冒頭部分で独身の人物は多いが、変装や性の交換や間違いなどの様々な経過を経て最後には結婚する。また、『リア王』の道化のように結婚しているかどうかもわからず、その結婚生活が想像できないような人物も幾人か登場するが、彼らにしても独身者の思想をあらわすわけではない。

 

 もっとも、シェイクスピアの時代にはそこまで厳格なキリスト教的な愛の観念は希薄だったろうから、結婚がそれほど神聖視されることもなかっただろう。それは、特に喜劇の場合、結婚にいたるまでの策略や駈引きがいかに遊戯性に満ちているかでもわかる。それゆえ、シェイクスピアでは、もちろん、『マクベス』や『オセロー』といった重大な例外はあるとしても、両性の親和性と反撥がもっとも活発に働くのはいかに結婚という目的に達するかにある。


 結婚がさほど神聖に考えられていないことではシャイクスピアと落語は似ている(なにしろ女房を最下等の女郎にして稼がせる『お直し』のような噺があるくらいだ)。もっとも大きな相違がある。

 

 ひとつには、落語には、与太郎と御隠居という大いなる独身者の世界がある。与太郎と御隠居がいなければ、落語の世界はどれほどやせ細ってしまうだろう。もうひとつ、落語には恋の駈引きがほとんど見られない。圓朝の原作や講談種の噺で匂うような色気が表現されることはあるが、そのほかで僅かに思い起されるのは、囲碁で帰りが遅くなって家を締めだされた若旦那に無理矢理娘がついていき、おじさんの家でおかしなことになってしまう『宮戸川』や花魁を一途に思う職人を語る『紺屋高尾』くらいなものなのである。


 結婚前の若者に代わって落語でもっとも大きな役割を占めるのは夫婦である。『替り目』は『芝浜』『火焔太鼓』につらなる噺だが、両者のように金を拾ってくるだとか、古ぼけた太鼓が殿様に思いのほか高く売れるといった特別な事件がないために、夫婦の関係がより純粋な形で浮かびあがっている。

 

 酔っぱらった男が夜、家に帰ってくる。家の前で車に乗ったり、外で飲むのと家で飲むのは違うのだからと、肴におでんを買いに行かせたり、さんざん注文をしたあげく、しかしそうはいうものの自分にはもったいない女房で、あいつがいなけりゃなんいもできやしない、とつぶやいていると外にでていたと思った女房がまだそこにいて、まだいたのか、元帳を見られちゃった。

 

 志ん生はここで切ってしまうが、本来は途中でうどん屋を呼んで、うどんを食べもせずうどん屋の鍋で酒の燗をするくだりがあり、それを聞いた女房がそれじゃあ悪いじゃないか、うどんを頼んであげようと呼ぶと、うどん屋のほうが、いけない、あそこはちょうど銚子の替わり目だ、とサゲることで、『替り目』という題の意味が明らかになるらしいが、私は最後まで演じたものを聞いたことがない。


 いかにも落語の夫婦というと、酸いも甘いも噛み分けた安定した関係を思ってしまうが、とんでもない。シェイクスピアのように変装や身分の入れ換えがないだけに印象は地味だが、おさまりかえった夫と拳々服膺しているかに思える女房のあいだにはめまぐるしい立場の変転があって、意中の人物を見事仕留められるかと同じくらいのときめきがある。