数学という言語と想像力ーー瀬山士郎『数学 想像力の科学』

 

  この本を読んで、深く溜息をついてしまった。もっと早くわかっていたら、ということがあまりにも多かったからだ。学生のころ、数学に夢中になっていた時期があった。雑誌『数学セミナー』を毎号のように買い、ポアンカレからはじまり、ヘルマン・ワイルやルネ・トムのようなものまで読みあさったが、いかにも古風なフランスの知識人らしく、機知のある一般的エッセーを残したポアンカレはともかく、その他はとても読んだといえるものではなかった。思えば当然である、算数といっていた時代からよい成績をとった記憶がなく、中高生程度の数学さえ理解していないものが最先端の現代数学などわかるわけがない。


 この本を読んでよくわかるのは、数学とはひとつの言語であり、世界的に共通ではあるが、それを知らないものにとっては意味のない外国語だということである。思い返せば、数学の本を読んでいた私は、ABCをおぼえたばかりでジョイスを読もうとするようなものだったのである。「数式という記号で書かれた文章を読みとる」ことが数学の基本中の基本であることに愚かにも気づいていなかったのだ。言語を習得するには、語彙を増やすという単調な労力が必要なように、数式を読みとるにも単調な計算を積み重ねることが不可欠である。


 啓蒙書としての外貌に騙されてはいけない、多層的な本である。もちろん、現代数学のトピックを一般的な言葉に置きかえた啓蒙書としての側面ももっている。ガリレオニュートンからゲーデルやコーヘンのように現代思想に直結するような数学者にまで言及する思想史的な側面もある。だが、凡百の啓蒙書のようにエピソードを書き連ねてわかったような気にさせてくれるのに反し、あえて数式を交えることをいとわない。

 

 「計算技術の習得をおろそかにしたのでは計算の構造が理解できません。電卓があるにもかかわらず私たちが計算技術を学ぶ大きな理由は、数学の技術を学ぶと同時に、計算の構造を知り、数の構造を知るためなのです。」と数学という外国語を学ぶには厖大で無駄とも思える単調な労力が必要であることを教えてくれる真に「教育的な」本でもある。


 キーワードとなっている想像力についても、それを放恣で自堕落な空想と取り違えてはならない。いまあげた引用文のすぐ後に、「仕組みを知り、意味を学ぶことこそが想像力を養う一番大きな基礎です。」と続けられていることからもわかるように、想像力とはそうした単調な労力ののちに訪れる跳躍の謂である。そしてまた、数式を一般的な言葉にかえるということは、ジョイスを翻訳するように、確かな言葉を得るための跳躍の連続であり、数式と日本語のどちらにも習熟していることが必須なのである。いわばこの本は自らの想像力の実践の場でもある。


 数学に夢中になっていたとき、もっともあこがれたのは数学でよく使われるブリリアントな証明ということだった。一本の補助線を引くことによって、全体の構図が一挙に浮かびあがる、そうした出来事にはいかにもブリリアントという言いまわしがふさわしいように思えた。ブリリアントな魅力に満ちた一冊である。