塩と知術――横井小楠『沼山対話』

 

日本思想大系〈55〉渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内
 

  横井小楠を意識したのは、勝海舟が『海舟座談』のなかで、「小楠はワシの先生だ」と断ったあとで、「小楠はタイコモチの親方のようなひとで、なにをいうやらとりとめたことがなかった」という一方、「たいていのひとにはわからなかった。しかし、エラクわかったひとで、途方もなく聡明でした」とも述べているのを読んでからだった。さらにその後の、「小楠は毎日芸者をあげて遊んで、幇間などと一日話している。人に会うのでも、一日に一人二人に会うとモウ疲れたなどといって会わない。しかし、植木屋だの、魚屋などと一日話して倦ませなかった」というエピソードなどは非常に魅力的に感じられた。

 

 文久2年(1862年)、松平春嶽のお供で京へのぼるまえの送迎の酒宴で、覆面姿の三人に襲われ、仲間を見捨てて無腰で逃げたことを非難されたいわゆる「士道忘却事件」(文久3年にこのことから出身藩である肥後藩から閉門の咎を受け、明治元年新政府によって呼びだされ参与に就任するまで維新の肝心な部分では活動することなく終わった。そして、翌2年、尊攘派の生き残りによって暗殺された)にしても、いまどきつまらぬ士道にこだわっている場合ではないという開明的な精神が脈打っているように思われた。

 

 しかしながら、『日本思想大系55』の山口宗之による解説「橋本左内横井小楠――反尊攘・倒幕思想の意義と限界――」となると、小楠の「思想の固さ、現実対応の迂遠さ」を指摘したうえ、その原因として、

 

1.小楠は熊本でも藩政に直截関与できるような地位にのぼることはなく、また賓客として招かれた福井藩にしても、あくまで顧問・客分にとどまった。そうした不安定な基盤が「現実認識を不十分にさせ、空虚な観念論に走らせ、かつ時として無責任ともいえる発言をなさしめたのではないか」という。

 

2.西洋の学術に対して深い理解を示したが、その読書傾向を調べると漢籍儒学関係のものが多く、「現実ばなれのした儒者理念にとどまらざるを得なかった」。

 

3.将軍継嗣問題で一橋派が敗退したあとも、英明な将軍を頂点とする集権的国家像を思いえがき「生きた現実にただちに対応するのでなく、内省=儒学理念からスタートせざるをえなかったところに、小楠の“政治思想”の弱さがあった」とさんざんな批判なのである。

 

 まったく異なる人物像に私は困惑せざるをえなかった。タイコモチの親方のような人物で、しかも植木屋や魚屋と一日語って飽きさせないような人物が現実ばなれのした空虚な観念論者たりうるのだろうか。

 

 大佛次郎の『天皇の世紀』には、坂本龍馬が海軍塾の資金をかりに越前に赴いた際、小楠と会ったときのことを語った由利公正の談話が引かれている。

 

「小楠の邸宅は私の家と足羽川を隔ててむかい合っていた。ある日親戚の招宴でおそく帰ったところ、夜半に大声で戸をたたく者がある。出て見ると小楠が坂本と一緒に小舟に棹さしてきた。そこで三人が炉をかかえて飲みはじめたが、坂本が愉快きわまって『君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行末』という歌をうたったが、その声調がすこぶる妙であった。」

 

 このとき、小楠は五十五歳、龍馬は二十九歳、はじめて会った二回り以上若い人物に胸襟を開かせるようなことが空虚な観念論者にできるのだろうか。『日本思想大系』で書簡や談話を読んでもこうした疑問は深まるばかりだった。

 

 元治元年秋の「沼山対話」で書物との関わりを述べた部分、

 

先書は字引と知べく候。一通の書を読得たる後は、書を抛て専己に思ふべく候。思ふて得ざるときに、是を古人に求め書を開てみるべし。心の誠より物理を求むる処切なれば、必中夜にも起て書を閲するほどになるものに候

 

また

 

道理直達と申ても、凡物は塩と申すもの有之候。此の塩と申すものは、至誠惻怛の心より出候て、固より知術とは相違致候。親に孝なるものゝ、務て親を悦さんとて塩を見て笑を含み、又貴人の前に出でゝは序を得、塩を見て言語も発し候など、皆自然の誠にて候。故に凡そ人は塩らしく無して万事行はれ兼候。我に道理あつても透らぬ物に候

 

という箇所などは現実の手強さを骨身に徹して知った者の言葉に思える。結果からのみ歴史的人物を評価し、可能性をまったく考慮しない解説者の方がずっと空虚な観念論者に思える。