もうひとつの眼球譚――桂枝雀『義眼』

 

枝雀落語大全(36)

枝雀落語大全(36)

 

 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

 

  バタイユの『眼球譚』では、眼球というオブセッションに取り憑かれた語り手たる「私」とシモーヌの若い男女が、玉子を尻たぶのあわいで滑らせたり、闘牛場で贈られた牡牛の生の睾丸を陰門のなかに納めたりする(「回想」によれば、バタイユは、はじめは牡牛の睾丸を「陰茎の色に似た鮮紅色のしろもののように想像」しており、睾丸と眼球との関わりに気づかなかったが、医者の友人の指摘によって「動物のものも人間のものも睾丸は卵形をしており、それに眼球の外観と色彩を備えていることを発見した」(生田耕作訳)のだという)。

 

 そして最後に、セビリヤの教会の神父をパトロンであるイギリス人のサー・エドモンドとともになぶり殺しにしたあげく、待望の眼球を抉りだして手にするのである。シモーヌはその眼球を肛門に入れ、続けて性器に押しこむ。「私は見たのだ、シモーヌの毛むくじゃらの陰門のなかに、マルセルの薄青色の眼が小便の涙を垂らしながら私を見つめているのを。湯気立つ毛叢のなかを幾筋も伝い流れる腎水がその幻覚に悲痛な嘆きの性格を添えるのだった」(マルセルは二人よりも更に若い少女で、乱交に巻きこまれたのちに精神病院に入り、二人によって救出されるが、すぐに自殺してしまう。いわばマルセルは二人にとってのアイドルであり、欲望を高める促進剤でもあった)。

 


 確かに悪くない小説だが、よくわからない部分もある。特に、性的絶頂と排尿が結びついているところなどがそうで、「私」にしろ、シモーヌにしろ、マルセルにしろ、あたり構わず小便を撒き散らすのである。スカトロ趣味なわけでもないようなので、肉体の決壊と交感というバタイユ的主題が展開されていると考えるしかあるまい。

 


 ところで私には、眼球というテーマでは『義眼』の方がより好ましく思える。眼を患って義眼を入れている男が吉原に行き、大いにもてる。満足して寝るのだが、医者に言いつけられた通り、寝ているあいだは水の入ったコップに義眼を漬けておく。一方、隣り座敷にはひどく酔っぱらって振られっぱなしの男がいる。「喉が渇いた、水をもってこい」といっても誰も相手にしてくれない。ところが隣を覗いてみると、コップに水がある。これはいいとばかりにもってきて義眼ごと飲んでしまった。それからこの男は通じがなくなり、お腹がどんどん張ってきた。医者にいって相談すると、とにかくなにかが詰まっているに違いないから、見てみましょうと、尻の孔に腹中鏡を入れて見た医者がびっくりした。「向こうからも誰かが覗いてました」。

 


 バタイユよりもずっとクールで、なにか妙に広々とした世界を感じさせてくれる。川戸貞吉によると(『落語大百科』)、志ん生はこの噺ばかりしていた時期があったらしい。先代の円楽が全生であった二つ目のころに、この噺を教わりに志ん生のところに行くと「この噺で俺はもう一稼ぎするんだから嫌だ」と教えてくれなかったという。残念なことに私は志ん生の『義眼』はまだ聞いたことがない。私が聞いたのは桂枝雀のもので、そういえば二人とも頭全体が眼球そのものであるかのような容貌をしていて、彼らの顔が尻の孔からこちらを覗いていることを想像すると、嫌が応にも世界はよりひろがっていくことになる。