首が飛んでも動いてみせるわ――立川談志『首提灯』

  

 

 

桂 枝雀 落語大全 第二十五集 [DVD]

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 団鬼六のエッセイに「生首愛好」がある(『アナコンダ』所収)。あなたの小説はSMと銘打ってはいるが、サディズムが希薄でつまらない、サディズムの極限は生首愛好であり、ぜひともあなたの小説には生皮を剥ぐとか、生首をさらすなどといった場面を取り入れるべきだ、と読者から手紙がくる。もともと団鬼六は、サドのように肉体を破壊するまで突き進む極端なサディズムには無縁の人物であったので、困惑するしかなかった。


 やがて手紙を送ってきた本人が自宅にあらわれ、迷惑に思ったが話をしたり、相手の自宅に上がることになってしまった。彼の話によると、生首愛好のたった一人の同志は浮気をした愛人を殺し、死体をばらばらにしたうえ、手足や胴体などはビニールの袋に詰めて山中に遺棄したが、生首だけは自宅の冷蔵庫に隠しておいたという。彼の自宅の書斎には、丸まげや高島田の女の生首の絵が壁一面にはりつけられ、血のりのついたお姫様や腰元の首人形が竹に突き刺されて書棚に並べてある。極めつけは、自分の妻の首を蝋人形に仕立て上げていることだ。


 私はポオの『ある苦境』や幸田露伴の『雪たゝき』など、総じて生首が行き来するような話は好きなのだが、団鬼六同様残酷趣味はないので、生皮を剥いだり血みどろまでいくと閉口する。オムニバス映画『世にも怪奇な物語』のフェリーニのパート、「悪魔の首飾り」程度が、つまりは現実としてのではなくオブジェとしての生首が好ましい。その点、落語は最良の舞台である。

 

 なにしろ、この噺のマクラでよく語られるように、胴体を真っ二つにされた男が、上半身は銭湯の番台に座り、下半身はこんにゃく屋で奉公、上半身は下半身に肩が凝っていけないから、足に灸をすえてくれるように頼み、下半身は下半身で、小便が近くて困るから湯茶をがぶがぶ飲まないでくれと言づてを頼むのが落語の世界なのである。


 すっかり酔っぱらった男が夜更けだというのに馴染みの女郎のところへでかける。追い剥ぎがでないかと怖がっていると、ひとりの武士がのっそりとあらわれた。麻布にめえるにはどうめえる? と道を尋ねる。田舎侍だとすっかり馬鹿にした酔っぱらいは、さんざん罵ったあげく痰を吐きかけた。殿より拝領された羽織の御紋にかかったから武士も我慢しかね、抜く手もみせずに切りつけた。しかし、あまりに見事な腕前だったため、切られたほうも気がつかない。だが、声の調子が変だ、首がぐらぐらする、首筋がニチャニチャする、やっと首をはねられたことに気がついた。具合の悪いことに火事の半鐘がなり、大勢の野次馬にこづかれて、首が落ちそうになる。そこで自分の首を提灯のように差しあげて、はいごめんよ、はいごめんよ。


 関西の『首提灯』は(私が聴いたのは桂枝雀)、侍文化がないためだろう、時代が明治になっている。さんざん酒を飲んで酔っぱらった男が道具屋で仕込み杖を買う。手もとにあると使ってみたくてたまらない。わざと戸締まりを不用心にし、泥棒を招きこんで、障子から首を出したところですぱっと切りつけた。腕はともかく切れ味はよかったので、首の皮一枚残すばかり。驚いて飛びだした泥棒だったが、外は火事の騒ぎで、こづかれた途端に残っていた皮もちぎれて首が溝に落ちてしまう。なんとか拾いあげて、首を前に提灯のように掲げて、みなと一緒に火事や、火事や。


 残った首の皮一枚は、また、リアリティと結びついた一枚の皮でもあるが、この場合はむしろ蛇足に近い。酔っぱらいが泥棒を斬るというのもまたいささかいやみの残るリアリティで、さんざん罵って痰まで吐きかけたとはいえ、首をはねてしまう侍の横暴さに対してはいごめんよ、と進む男の方が「首が飛んでも動いてみせるわ」とうそぶいた伊右衛門の心意気が町人なりの意地となってあらわれている。