往きと帰り――立川談志『権助提灯』

 

  往きと帰りが魅力的なのは、往きには未知なものへ向かう冒険と胸の躍動があり、帰りには馴染みの場所に戻ることの安心感と休息への誘いがある。往きと帰りが不安を引き起こすのは、いつのまにかいま自分が移動している方向が果たして往きなのか帰りなのかわからなくなることにある。

 

 鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』では、藤田敏八演じるドイツ文学者が、鎌倉の切り通しを通って同僚の原田芳雄の家に何度も通うのだが、往きか帰りかばかりではなく、夢なのか現実なのか、しまいには生の世界にいるのか死の世界にいるのかさえ判然としなくなる。


 『権助提灯』は往きと帰りで成り立っている噺である。はじめはどちらが往きでどちらが帰りかははっきりしているように思われる。ある大店の旦那がひとりの女を囲うことになった。気まずいながらも奥方に切りだすと、かまわないですよ、隠されているよっぽどいいです、とあっさりしたものだ。相手の女を挨拶に引きあわせても、かえって私も楽になるから、よろしくお願いしますよ、と鷹揚に構えていて、特に焼き餅を焼く様子でもない。


 大風の吹く晩があった。旦那が休もうとしていると、こんな日には火元にも注意しなければならないし、火事があっては大変だからあちらの家に行ってやったらどうでしょう、うちには店の者が大勢いますが向こうは婆やと狆がいるだけだから、と奥方が言いだす。それもそうだと思った旦那は、暗い夜道のことではあるので、供を連れて出かけることにする。ところが、店の者はみな寝てしまって、生憎起きているのは身なりもだらしなく下品な言動ばかりする権助だけだ。まあ、人と行き交うこともない夜なので、権助でもかまわないだろうと二人は往きの夜道を出発する。

 

 ところが向こうの家にいってみると、いつも気にかけてもらってありがたく思ってますが、そこまで甘えてしまっては申し訳がありません、今日だけはご本宅でお休みください、と家に入れようとしない。その心根をうれしくも感じるので、旦那は帰りの道を歩きはじめる。奥方はあの娘がそんな立派なことをねえ、と感心するが、それはそれ、今後の示しがつかなくなるので、向こうにお泊まりください、と入れてくれない。奥様に顔向けができません、あたしも泊めるわけにはいきません、と行き来しているうちに提灯に火を入れるまでもなく夜が明けた。


 『権助提灯』という題名はよくできている。もちろん、本宅と妾宅との焼き餅の入りまじった意地の張りあいが旦那をピンボールの玉のようにはじくともとれるのだが、本宅から妾宅への道も、妾宅から本宅への道も往きでも帰りでもない権助こそはまた、前方を照らすべき提灯をもちながら旦那の後を歩こうとするような方向をまったく意に介さない男なのである。一方、旦那はある意味、奥方と囲いもの双方の承認を取りつけ、出発点であり帰るべき場所を二カ所もつくって、あたかも往きと往きしかない往復を往きと帰りであるかのような生活を送っている。どちらからも締めだしを食ったのをみて、向こうも駄目でこっちも駄目かい、いよいよ住むところがなくなったな、と言う権助は正真正銘の往きと帰りを味わってみるがいいと旦那を嘲笑うデモーニッシュな存在なのである。