夢に対する勝利――桂三木助・立川談志『芝浜』

 

昭和の名人~古典落語名演集 三代目桂三木助 一

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立川談志ひとり会 落語CD全集 第5集「芝浜」「高座版現代落語論~落語界の巨人達~」

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  『芝浜』は好きな噺だが、思い返してみると、桂三木助立川談志の落語でしか感動したことがない。歌舞伎で劇化したものを見たことがあるが、やらずもがな、しかもあろうことか最後の場面で酒を飲む演出になっていたと記憶する。


 しかし、この噺の感動はどこにあるのだろうか。同じ人情噺でもこれが『文七元結』などであれば、親の借金を返すために身を売ろうとする幼い子供、その娘の身体を担保に借りた五十両を、店の金をなくして死のうとしている男に投げつけるように渡すやせ我慢など、人柄のよさや、娘の身体を質に借りた金だろうと命のほうが重いはずだという倫理観など、感動を呼び起す点がわかりやすい。


 ところが、『芝浜』の場合、なにが感動を生むのかわかりにくい。酒ばかり飲んで仕事を全然しない魚屋が、女房にせっつかれてようやく重い腰を上げる。出かけてはみたものの、なかなか明るくならず、市場も開いていない。どうやら一時早く起されたようだ。しかたがないので芝の浜で煙草を吸っていると、汚い革の財布を見つける。なかには四十二両という大金が入っている。

 

 急いで家に戻った男は、金を女房に見せ、友人連中を集めて、めでたいめでたい、とどんちゃん騒ぎをする。次の朝、男はお前さんはやく仕事に行ってくれよ、という女房の声で眼をさます。なにを言ってるんだ、きのうの金があるじゃねえか。なんだい金っていうのは、と女房。男は金を拾った夢を見たらしいいのだ。男は今度こそ心底反省し、仕事に精をだすようになる。三年も経つと、男の魚屋は若い者を幾人か使い、大晦日に金の心配をしなくていいくらいの店になっている。

 

 大晦日の夜、夫婦二人っきりになったところで、女房は金は本当にあったこと、男が寝ているあいだに大家に相談に行ったところ、手をつけるなどとんでもない、すぐ奉行所に届けるように言われ、男にはひたすら夢で押し通すことにしたというのだ。最初は腹を立てた男だったが、すぐ思い直し女房に感謝する。どうだい、お酒を飲まないかい。ああ、いい香りだ、本当にいいのかい、いや、よそう、また夢になるといけない。


 もちろん、ひとつには『替わり目』や『火焔太鼓』にも通じる夫婦同士の本音の探りあいがある種理想的な掛けあいとなっており、感動を呼ぶことがある。しかし、最後の場面はそうした二人の世界を突き抜けている。夢になるといけないと、酒を止めるとは、男の単なる自制をあらわしているわけではない。なんでも可能な夢に対して現実が勝利していることを高らかに宣言しているのである。

 

 しかもその現実とはなんであろうか。大名暮らしでも、自由に茶屋遊びをする大店の主人でもない、せいぜい数人を雇い、年の暮れをゆっくり過ごすことのできる魚屋の主人なのだ。それだけに夢に対する現実の勝利が一層印象深いものになる。大名や大店ではその主には手の届かないぼんやりした縁の部分が必ず存在する。そうしたぼんやりした部分によって主の生活は成りたっており、ある意味夢のようなものなのである。ところが、魚屋の男の日常には生活の実質がぎっしりと詰まっており、ぼんやりした縁が存在しない。それゆえに現実の勝利は決定的なものとなり、その力強い肯定に我々は感動する。