長屋の壁という武器――柳家小さん『粗忽の釘』

 

  柳家小さんの『粗忽の釘』を聞く。引っ越しの日、粗忽な男は風呂敷に箪笥を包んで担いだまではよかったが、犬の喧嘩を見たり、自転車の事故を見とどけたり、元の家戻ったり、道に迷ってなかなか新宅にたどりつくことができない。ようやく長屋を見つけた男は、女房に箒を掛ける釘を打つように頼まれる。たまたまいた蜘蛛を殺そうとして、思わず壁に釘を打ちこんでしまう。長い釘だったのでどうやら向こうに突きでてしまったようだ。けがなどすると危ないので、断わりにいけという女房の言葉に従い、長屋をまわる。一番先に入ったのが向かいの家で、向かいの釘がこちらに届くはずはないのだから、心配しなくていいというその家の主の言葉に、いやとにかく長い釘なんですから、と男は言い張る。


 粗忽どころかこの男の空間感覚には端倪すべからざるものがあるといわねばなるまい。空間の連続性という常識にとらわれずに、長屋の壁の類似性に目を向けるならば、我が家の壁に打ちこんだ釘は長屋のどの壁から飛びだしてもおかしくはないのである。


 三代目小さんは名人の呼び声が高く、夏目漱石が愛したことでも知られている(私はSP盤の録音を聞いたことがあるが、三分程度の雑音混じりの音源ではさすがになんとも判断のつけようがなかった)。『三四郎』では圓遊と比較されて次のように言われている。「圓遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。圓遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい」と。


 圓遊は「ステテコの圓遊」とも「鼻の圓遊」ともいわれ、落語の改作に力を注いだ。ギャグをふんだんに盛りこんだらしいこと、また、「太鼓持になつた圓遊だから面白い」という漱石の発言から推測すると、芸が前面に出るタイプというよりは、パーソナリティーが突出している落語家が想像される。小さんと圓遊の対照的な姿は、ちょうど文楽志ん生のようなものではなかったろうか。こうした対照的な落語家のなかで漱石の称讃する三代目小さんから二代後になる五代目小さんはどこに位置づけられるのだろうか。


 落語では、能や歌舞伎のように親が子供の師匠となり、なにもわからない幼いころから問答無用に型をたたき込むということがないので、同じ名前を襲名しても芸や型の継承がなされているかどうかは疑わしい。五代目小さんに特徴的なのは、そのフラットな語り口にあると言えるだろう。与太郎のように奇矯な性格をもったものでも、必要以上に口調を乱して別な人格を造型しようとはしない。おそらく『うどん屋』にでてくる酔っぱらいくらいが小さんの最大限の別人格なのではないだろうか。そうした意味では、志ん生はもちろん、「泣きの文楽」と言われ、思い入れたっぷりに登場人物を演じた桂文楽ともまったく異なる。


 にもかかわらず、小さんの落語がたまらなくおかしいのは、そのフラットな口調が乱れることなく長屋の壁のようにあちらこちらに張りめぐらされており、粗忽な男同様常識的空間配置(リアリズム的な性格造型や因果関係)など意に介さない小さんが打ちこむ釘はどこから飛びだすかわからない驚きに満ちている。