世界=市民のための座頭市ーー平岡正明『海を見ていた座頭市』(1973年)

 

海を見ていた座頭市―平岡正明映画評論集 (1973年)

海を見ていた座頭市―平岡正明映画評論集 (1973年)

 

 

 先頃亡くなった劇団・月蝕歌劇団の主宰者であった、高取英さんと、30年くらいまえに、ちょっとだけ話す機会があって、どういう具合にか話が平岡正明のことになり、『魔界転生』が面白かったというと、おおっとちょっとびっくりした顔をして、「『魔界転生』を読んでる人間にはじめて会ったよ」といわれた。事ほどさように私は平岡正明の愛読者なのである。自慢ではないが、全5冊に及ぶ『皇帝円舞曲』もそろえているほどなのだ(まだ読んでいないが)。

 

 なにしろイザラ書房であるとか、秀明出版であるとか、小さな出版社でばかり本を出しており、それらの出版社がまた次々につぶれるので、よほど古本屋を丁寧に廻らなければ、その著作をそろえることが難しかったのである。

 

 それにしても、膨大な平岡正明の著作のなかでも、『海を見ていた座頭市』というのは屈指の題名の一つであると思う。晩年は『新内的』『浪曲的』『落語的』と『的』を愛用されていて、別に文句はないが、『マリリン・モンロープロパガンダである』とか『官能武装論』といった異形の題名が懐かしくないこともなかった。

 

 平岡正明ご本人の姿は2度ほどお見かけし、一度は上杉清文の芝居の舞台に立たった空手着姿の平岡正明が正拳突きで板割を披露したのだが、芝居の筋とはほとんど関係なくあらわれてすぐに引っ込んでしまったのをよくおぼえている。

 

 もういちどは、河内音頭の公演で、朝倉喬司と一緒だった。声をかけようと思えばかけられるほどの距離だったが、二人連れであったし、決して褒められたことではないが、極度の人見知りで、どう声をかけたらいいのかなにも思いつかないままに時間が過ぎてしまった。それに、平岡正明はお酒も飲まないし、極真空手で鍛えているから、ちょっとやそっとで死ぬこともあるまいと思っていた。

 

 この本は、題名には『座頭市』をつかっているが、座頭市を論じたのは2編で、圧倒的に多いのは若松プロの作品であり、それにゴダール大島渚が加わった映画論集である。しかし、やはり印象深いのは、座頭市論である。

 

 とくに、「座頭市はクラウセヴィッツ理論の権化だ。彼のドメクラ斬りは本質的に防御にはじまる。そしてこのことは、座頭市において、日本の民衆蜂起の原型としてあらわれる。」という一文からはじまる「座頭市オゥ・ゴー・ゴー」はすばらしい。

 

 武器は二つの種類に分けられる。一方は、権力の武器であり、その時代時代の最新のテクノロジーの結晶であって、それが最新テクノロジーであるために、火器、探知機、動力などといった目録と、操作の仕方を習得するのがせいぜいのところで、武器の効果が実際に現われる現場のことは権力はなにも知らない。その意味で観念的なものでしかない。

 

 他方、武器を防御の延長と考えるものは、民衆であり、生活のなかにある道具から武器をつくりだすことが技術である。その結果、民衆は社会全体を潜在的な武器と見なすことができる。そして道具の延長であるためにそれは常に具体的に生活と連関しており、現実を見失うことがない。

 

 ただ、いまの問題は民衆、あるいは市民と呼べるような存在がいなくなっていることで、そうした存在が必ずしも自明ではないことが明らかになってしまった。国民となるとさらに漠然としていて想像の共同体以上でも以下でもなく、一番しっくりするのは世界=市民、世界=民衆なのだが、それがどのように組織化されるのか、皆目見当がつかない。