群衆ではないグループのためにーーバタイユ『有罪者』II

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

 

 

有罪者―無神学大全

有罪者―無神学大全

 

 

 

 笑いを必要としない人間、エロティシズムや愛を必要としない人間、「移行するもの」を必要としない人間、孤立した人間は、自らを中心に全世界を反映することができるならば、まさしく世界を保有し、真理をもまた手にしていると考えることができるだろう。
 
 ここでは真理とは、孤立者を中心に置く、安定し、閉ざされた世界についての認識である。この閉ざされた世界では、孤立者の価値観によってすべての出来事がその重要性によって等級づけされ、その階層化された全体こそが真理であるから、いかなる出来事であろうが閉ざされた全体に影響を及ぼすことはない。すべては、いわば中心点からの距離によって位置づけられるからである。
 
   
    サン・ラザール駅に列車が入ってくる。私は列車の中にすわって、窓ガラスに顔を向けている。こんなことは、無辺際の宇宙の中の、取るにたらぬことでしかないと考える、そういう甘い考えを私は採らない。もし宇宙に完了した全体性という価値を与えようとするなら、そういうこともあり得よう。だが、もし、未完了のある量の宇宙しかないのなら、ひとつひとつの部分は全体に劣らぬ意味を持つのである。恍惚の中に、完了した宇宙という次元まで私を押し上げる真理を、「駅に入ってくる列車」から意味を剥奪するような真理をたずね求めることは、私には恥ずべきことに思われる。
             (ジョルジュ・バタイユ『有罪者』)

 

 
 世界を、中心点を持たない未完了のものだと考えることは、一見すると参照される単一の大きな意味(たとえば神)が見出されないゆえに、そこでは、日常の些細な出来事などは、まったく意味のないものであると感じられるかもしれない。
 
 逆に、孤立者の閉ざされた世界であるならば、サン・ラザール駅に列車が入ってくることは、取るに足らないことであるにせよ、階層の底辺に場所を与えられるだろう。だが、中心点を持たない世界においては、参照される意味という支えがないことで、あらゆる出来事は無意味に落ち込んでしまうのではないだろうか。
 
 中心点を持ち、完了した世界では、あらゆる出来事が中心との関わり如何によって意味を配分されている。つまり駅に列車が入ってくるということは、あらかじめ取るに足らない意味が与えられていて、現実に列車が入ってくること自体はその取るに足らない意味を確認することでしかない。あらゆる出来事はあらかじめ意味を与えられているために、収まるべき場所があり、既知のもので、どんな出来事であろうと完了した全体に本質的な影響を与えることはない。
 
 だが、中心点を持たない未完了の世界では、意味とは、すべてが連関している全体の中での一つの結節ではなく、むしろある特定の場所、ある特定の時間において生み出されるものである。どんな出来事も確定的な意味や位置があらかじめ与えられることはなく、出来事は未知のものであり得、全体に劣らぬ意味を生み出す可能性を持っている。
 
 すなわち、バタイユがここで言っているのは、どんな些細な出来事にも意味があるというのではない。それはまさしく中心点を持つ完了した世界の印であり、意味の配分が終わり、新しい出来事など存在しないことを示している。
 
 そうではなく、あらゆる出来事には全体を変えうる、それだけ重大な意味を持ちうる可能性の核がある。意味とは、配分され、固定された位階に位置づけられるものではなく、出来事に潜む核から引き出されるものとして捉えられねばならない。
 
 サン・ラザール駅に列車が入ってくることの意味そのものが問題なのではなく、出来事に意味を確認するだけの働きしか認めないのか、あるいは、与えられる意味を越え出て、新たな意味を形成する力の備わったものと捉えるかがここでは問われている。