舞台としてのそば屋――柳家小さん『時そば』

 

昭和の名人?古典落語名演集 五代目柳家小さん 十二
 

  『時そば』はもっとも早くおぼえた落語のひとつだ。ある男が、夜鷹そばを呼びとめ、そばを頼む。的に矢が当たっている模様の提灯をみては、これから手なぐさみに行くのだが、縁起がいい、注文してすぐ出てくるのは江戸っ子の気質がよくわかっている、使いまわしの箸ではなく割り箸を使っているのがいい、どんぶりもきれいだ、鰹節をおごっているから出汁の香りがいい、麺も細くて腰が強い、竹輪麩を使っているそば屋が多いがここは本物の竹輪だ、とのべつ幕なしに褒める。

 

 支払いになり、銭が細かいから手をだしてくれ、ひい、ふう、みい、よお、いつ、む、なな、はち。何刻だい? へえ、ここのつで。十、十一、十に、十三、十四、十五、十六と銭を払った。それをみていたのがちょっとぼおっとした男で、よくしゃべりやがる男だな、食い逃げかと思ったら銭まで払ってやがる、とわけのわかったようでわからぬ怒りを抱いている。

 

 ところで、あいつ妙なところで刻を聞きやがったな、とそこであの男が一文ごまかしたことにようやく気づいた。こいつは面白いと、その日は小銭がなかったので、次の日小銭をそろえてそば屋に向かった。

 

 前の男と同じように褒めようとするのだが、提灯に当たり矢の印はなく、注文したそばはなかなか出てこない、箸は使いまわしで先が湿っている、どんぶりの縁は欠けたところばかりで、出汁はお湯を足さなければ飲めないほどのしょっぱさ、麺はうどんくらいに太く、入っているのも竹輪麩でしかも探さないと見つからないほどの薄さときている。勘定で憂さを晴らせるかと、ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、七、八。なん刻だい? へえ四で、五、むう、七、八・・・・・・


 しかし、私は何度か聞くうちに、一文をごまかす世知辛さがあまり好きではなくなってしまった。お金の基準が正確にはわからないが、屋台のそばだから、いまの金額にしても三、四百円といったところだろう。二、三十円を小商いの商人からせしめたところで、後味が悪いばかりではないか、と思ったのである。


 だが、さらに幾度か聞くうちに、真似して失敗する男の方に眼が移りはじめた。時刻を確かめないようなところはいかにも間が抜けているが、与太郎ほど常識を顧みない確固たる芯をもっているわけではない。そもそも勘定をごまかすだけなら、まずいそばを無理して褒める必要などないのだ。さらにさかのぼっていえば、なにもひとがそばを食っている様子を最初から最後まで見ているのもどうかしている。


 つまり、この噺はそばの勘定をごまかす噺ではなく、落語家がそうであるように、そば屋の場景を語る噺なのである。最初の男が目につくものを次々に褒めあげていくのは、勘定をごまかすための下準備などではなく、ある種の(落語家をそこに含めてもいいが)生存のあり方である。失敗する男が無理をして前の男と同じように褒めようとするのは、自分では気づかぬうちに、こうした生存のあり方に魅了されてしまったためだと言える。こうした演者にとっては、そば屋もまた場景のひとつでしかないのだから、お代が足りませんよ、などどいって演者の呼吸を乱すことなど考えることもなく、はんちくな素人から余計にとればいいだけなのだ。