文明の体現者たる幽霊――桂三木助『へっつい幽霊』

 

昭和の名人~古典落語名演集 三代目桂三木助 二

昭和の名人~古典落語名演集 三代目桂三木助 二

 

  吉田健一のお気に入りのエピソードに、ある男の家を訪ねてきたお化けに酒を出そうとすると、今夜は暖かいんだし、冷酒で結構ですよ、と声をかけるものがある。平凡社版の『聊斎志異』でいうと「首のすげかえ」という題の一篇に出てくる場面で、正確に言うと、尋ねてくるのは閻魔の庁の書記役である判官で、お化けというよりは鬼といった方が近いだろう。


 澁澤龍彦もこの一篇を好きだったらしく、『うつろ舟』の「護法」はこの話が下敷きにされている。それはともかく、吉田健一がこのエピソードを好んだのは、お化けさえも、冥界の住人でさえも文明化されているのが成熟した文明に他ならないからである。

 

 お化けや鬼だからといって恨みを抱いて取り憑いたり、乱暴に現世を蹂躙するだけならば、いまだ文明が冥界にまで及んでいないということであり、要するに未熟なのである。こうした基準をもとに考えるなら、『へっつい幽霊』に出てくる幽霊など、酒こそ飲まないまでも、同じく三欲のひとつである博打に応じるのであるから、成熟した文明に適った存在だと言える。


 ある古道具屋でへっついを置いていたが、なぜか売れた晩に返品に来る。何人目かの客に聞いてみると、夜中に男の幽霊が出るという。どちらにしろ、売った半額で引き取るのが決まりなので、儲かるばかりだとそのまま品物を置いていたのが近所で評判となり、他の品まで売れなくなってしまった。

 

 商売にならないので、一円をつけてでも誰かにもらってもらおう、と夫婦で相談をしているのを聞いたのが熊五郎、幽霊などなんとも思っていないので、勘当中の若旦那を仲間にしてへっついを引き取りにいった。二人して運んでいると、よろけたはずみに角が欠け、中から三百円が出てきた。二人で半分に分け、熊五郎は博打場、若旦那は吉原へ、あっという間に使い切ってしまった。

 

 一文無しで寝ていると、へっついの置いてあった若旦那の部屋に、金を返せと幽霊が出た。なんとかすると引き受けた熊五郎は若旦那の親を訪ねて三百円を調達すると、さあ出てこいとへっついの前に陣取った。

 

 夜中になると幽霊が出てきたが、特に恨みつらみを言い立てるでもなく、出てくるわけを語り始めた。男は左官の長五郎といったが半分博打打ちで、名前通り丁よりほかに張ったことがない。あるとき、馬鹿について、三百円になった。

 

 どこから聞きつけるのか、融通をしてくれという者たちが大勢集まってきてうるさくて仕方がない。商売もののへっついのなかに塗り込んだのはよかったが、当たっているときは違うもので、河豚にあたって死んでしまった。地獄の沙汰も金次第というから、へっついから金を取り出してくれるように頼むのだが、みんな怖がるばかりである。

 

 話を聞いた熊五郎は、山分けにするなら金を出そうという。幽霊も渋々承知をしたが、半端でしょうがねえや、という一言に二人して百五十円の勝負をすることになった。いつも通り丁に賭ける長五郎だったが、出た目は半、がっかりした幽霊がもういっぺん入れてくださいな、せっかくだがそいつは断ろうじゃねえか、お前の方に銭のないのはわかってるんだ、安心してください、あっしも幽霊ですから決して足は出しません。


 しかしながら、幽霊の言うことはいささか筋が通らない。取り出した金を持っていくことができるなら、つまり現世の物に物理的な力を及ぼすことができるなら、へっついからも取り出せるはずである。また、物としてある三百円を地獄にもっていけるのなら、へっついから出すまでもなく、へっついのなかから直接地獄にもっていけばいい話だろう。

 

 思うに、酒飲みの呼吸は時代や場所を越えて洗練の極にあるため、冷やでいいですよの一言ですんでしまうのだが、丁半博打というローカルな賭事には、道具屋、幽霊になって出ること、熊五郎という遊び人、若旦那などの回り道が必要になったのであり、それを除けば酒の場合とさほど径庭のないことは半端でしょうがねえやという一言から博打に移る呼吸に明らかであって、博打がしたいものが博打のために現世にあらわれるのは健全な文明の証左である。