風景に開く影の穴ーー内田百閒『百鬼園随筆』

 

百鬼園随筆 (新潮文庫)

百鬼園随筆 (新潮文庫)

 

 

 百閒は幾つかの随筆のなかで、実生活において自分が経験した恐怖について語っている。百閒が法政大学航空研究会の責任者だったときのことだろう、飛行機から外を眺めていて感じた恐怖はこうしたものである。

 

私は窓の下に小さく見える川原や丘や農家の屋根などを、珍らしい感じで眺めていた。ふと私は何だか黒い影の様なものが、畠の上を走っているのに気がついた。始めはよく解らなかったけれども、暫らく見つめている内に、それは私の乗っている飛行機の影が、畠の上に小さくうつって、空の飛行機と一緒に走っているのだと云う事が解った。私はびっくりする様な気持がした。同時に、身体が固くなり、小さく縮まって、急に恐ろしくなった。私がその影を見て、自分の乗っている飛行機の影だと知った瞬間に、私のいる三千尺の空と、影のある地面との間を、私の気持の上で或物がつないだのである。その為に高い屋根か塔の上から足もとの地面を見た時のような不安に襲われたものと思う。(中略)恐ろしいのは、地面からつづいて高く伸びているものの上に起つ事である。一旦離陸して空に上れば、自分と地上とは別別のものになってしまう。
    (「飛行場漫筆」   『百鬼園随筆』所収)

 

 

 

 ここには二つの恐怖がある。高い屋根や塔の上で感じる高所恐怖と飛行機の影を見つけたときの恐怖とである。この二つの恐怖は、結びつけられるべきものなのではなく、全く異なった種類の恐怖である。

 

 高所恐怖は高い所にいることを自覚し、それを意識することから生まれてくる恐怖である。畠の上に飛行機の影を見つけたことで、ことあらためて飛行機が飛んでいる高さを意識するというのでは説得力がない。眼前に見えるだろう山や、雲がいっそう確実に高さを意識させてくれるだろう。


 なによりも、高所と影、それぞれに対する反応の仕方が、二つの恐怖の相違を明瞭にあらわしている。引用した文の前で述べられているように、高い所から下を覗いたときの恐怖は、「両足の内側が冷たくなる」恐怖であり、高さを自覚することが徐々に身体に伝わっていくような恐れである。一方、畠の上にあるのが飛行機の影だとわかったときの恐怖は、「びっくりする様な」、「急に恐ろしく」なるものであり、百間の短編にたびたびあらわれる「水を浴びた様な気持」と言ってもいいものである。


 百閒は、「二千米以上の上空から、白雲の隙間を通して、地上の風景を瞰す興趣は、人間に許されたものとしては、勿体な過ぎる」と言う。実際、飛行機から眺められる景色には、近景がなく、したがって、それほどスピードの影響を受けることはなく、その景色は常にこれまた『阿呆列車』などにたびたびあらわれる「山のたたずまい、川の曲がり工合」で成り立っている。その風景には果てがなく、常に遠ざかってたどり着くことがなく、移動する飛行機をその風景がドーム状に覆っている。


 畠の上に見出された飛行機の影とは、そうした、百閒が保持しつづけている風景についた染みであり、うがたれた穴である。つまり、到達できないはずの風景に自分が乗っている飛行機の影が辿りついているのであり、ドームのように覆っている風景の境界の存在を認識させ、風景のドームの外側を示唆するために恐ろしいものなのである。

 

 風景に開いた穴は、普通は完璧に機能しているはずの百閒の風景に、いつでも、突然に見出されるものであるために、突発的な、「水を浴びた様な気持」として恐怖が喚起される。
 

 所々で百閒が述べている雷に対する恐怖もまた、風景の外部から到来するものに対する恐れが中心になっていると考えていいだろう。こうした、飛行機の影や大きな杉の木が引き起こす恐怖と同じように、『冥土』の短篇に見られた、知らないと思っていた女が、実は昔見たことがある女であることや、いま歩いている道が昔通ったことのある道であること、自分の声が道連の声と同じであることに気がつく瞬間の恐怖には、風景に亀裂が入ることの恐れがある。