影の影ーーポオ『マルジナリア』、デヴィッド・チェイス『ザ・ソプラノズ』

 

マルジナリア (1948年) (創元選書〈135〉)

マルジナリア (1948年) (創元選書〈135〉)

 

 

 

 

 起こりうるはずのない出来事が異様に鮮明な感覚を伴っているポオの描きだす世界は夢に似ている。『マルジナリア』のなかでポオは、善人は死後もなお存在するが、悪人は死ぬことによって絶滅するという面白い世界観を提示している。善悪、つまり死後も存在するか絶滅するかは夢の量によって判断される。夢とは死後の世界を開示するものであり、夢の多寡によって魂のある種の耐久性とでも言えるものが示される。
 
 だが、より興味深いのは、同書のなかで、「影の影」と名づけられているある種の「幻想」である。この「幻想」は、夢と現のあいだの魂が極度に落ち着いた瞬間にしか訪れることはない。思想は時間の持続がなくてはあり得ぬものであるから、それが思想でないことは明らかである。「かういふ『幻想』は、快い恍惚感に伴はれて来る、そしてその快さは、醒めて居る時、或ひは夢の世界の、どんな快さよりも、遙に、北欧人の天国がその地獄から離れて居る程遙に優れたものである。」(吉田健一訳)
 
 ポオのいう「影の影」は持続のない点でしかないために、思想としてあらわすことはできないが、ポオがその表現を諦めているわけではない。ポオは、必要条件さえすべて備わっているとき、「幻想」の起こる状態を制御できるようになった。また、「幻想」から眠りへと陥るのをとどめ、記憶できるようにもなったという。
 
 その恍惚は「人間を超越したものであり、精霊界を啓示するもの」で、こうした「霊的印象には、日常の印象と似通ったものが全然ないからである。私は丁度、五官の代りに、五万の、人間のものではない感官を持たされたように感じる」とポオが書いてあるのをみると、あるいは極彩色のサイケデリックな幻覚などを連想してしまうが、むしろ真の「影の影」とは、日常の世界と似かよっていながら決して日常にはあり得ないような、世界にあいた穴、裏返しになった世界のようなものではないだろうか。
 
 デヴィッド・チェイスが総指揮をとった『ザ・ソプラノズ』というアメリカの連続テレビ・ドラマがある。コッポラの『ゴッド・ファザー』やマーティン・スコセッシの『グッド・フェローズ』の流れを汲むマフィアが主人公の物語だが、中心となるトニーは、ニュージャージーを支配し、富もすでに得ている。チンピラからボスに這い上ることが物語の求心力として働くわけではないことで、通常のやくざ映画とはまったく異なった視界が広がっている。事実、『24』のように各話ごとにクライマックスが連続するシリーズとは異なり、海の沖のようにうねりだけが存在している。
 
 抗争や過激なバイオレンス描写もあるがそれと同程度に(あるいはそれ以上に)、強く愛してはいるが意地悪で強圧的でもある母親との葛藤や成長していく子供たちとのあいだの誰にでも起きうるような諸問題が扱われているのが特徴である。
 
 また、トニーは、剛胆さと用心深さを兼ね備えているが(暴対法にあたるものがアメリカでも施行されており、アル・カポネのように、街中で銃を撃ちまくって相手組織を潰せばすむような時代ではなくなっている)パニック障害で昏倒してしまうことがあり、ファミリー・ドクターの勧めで、精神科医に通っている。だが、そのことは総じて「インテリ」を馬鹿にしているマフィア仲間のうちで公言することはできない。しかも、こともあろうに、その精神科医は女性なのだ。
 
 第一シーズンの後半、身内のなかにFBIとの内通者がいることがわかり、また、実は組織のすべてを取り仕切り、自分を窮地に追い込んでいるのが母親であることが明らかになってくる。
 
 ストレスがたまる一方のある日、二階の窓から隣の家で若い女性が洗濯物を干しているのを見かける。また別の日、風で飛んだのか、草むらに落ちている洗濯物を拾い、庭に座っている女性に手渡し、ちょっとした話を交わすようになる。それによると、彼女はギリシャから出てきて、アメリカで歯科の勉強をしているという。隣家の人々が旅行しているあいだ、留守番かたがたいるらしい。
 
 ギリシャの穴蔵のような小さな家で、隣で彼女が幼子に乳を与えている美しい夢を見る。二階の窓から外を眺めている夫の姿を見た妻が若い女を認めてちょっとした口論になるのだが、特にトニーは性的に彼女を見ているのではなく、あり得たかもしれない幻想の対象として、暴力や血みどろの葛藤がなく、富もなく貧しくはあるかもしれないが平安の象徴として見ていたのである。
 
 ところが、隣家の人々が帰ってきたとき、主人にギリシャ女性のことを聞いてみると、狐につままれたような顔をしている。要領を得ないまま、妻にも尋ねてみるが、彼女も変な顔をしている。口論したことももちだしてみるが、なんのことを言っているの、という反応しか返ってこない。つまり、ギリシャ女性に関することはすべてトニーの幻想であったのだ。
 
 あるいは、それはポオの『マルジナリア』同様に吉田健一が翻訳したイブリン・ウォーの『ピンフォールド氏の試練』のように、精神科で処方された薬の作用によるのかもしれない。
 
 この小説では、船旅をしている小説家が、おそらくは薬の副作用によって、船員や客の多くに意地悪され、陰謀が張り巡らされているという被害妄想に襲われる。結局、妄想が晴れ、「ピンフォールド氏の試練」という新しい小説を書きはじめることでこの小説は終わるのだが、『ザ・ソプラノズ』のエピソードは無意識が現実のなかに突発的に介入する幻想の性格において、ブニュエルの映画により近いかもしれない。
 
 実際、映画監督でもあり、ホークス、フォード、ラングなど巨匠と呼ばれる作家たちのインタビュアーであり、トニーがかかっている女性精神科医のカウンセリングをしている精神科医として俳優としてシリーズに登場するピーター・ボクダノヴィッチによるデヴィッド・チェイスのロング・インタビューでは、チェイスブニュエルのファンであることを自認している。