解釈と命名

 夢は解釈を誘う。夢解釈自体は古代からあったが、フロイトが『夢解釈』で無意識との関係で与えた影響は、夢が表面的な出来事とは異なる意味をあらわしうることにある。ロラン・バルトが宣伝や写真や新聞記事に見いだした偏見や差別をあぶりだす「神話学」は、政治的に中立な立場などないとしたサルトルとともに、フロイトの大きな影響下にあると言えるだろう。
 
 まったく異なる出発点から似た結論を引きだしたものにアメリカの批評家ケネス・バークがいる。その著作『恒久性と変化』は行動主義が猖獗を極めていた1930年代に書かれたが、単にそれを批判するのではなく、その結論を受け入れた上で、悪夢的な状況を描いてみせる。
 
  あらゆる生物は批評家である、という前提からバークは出発する。ある疑似餌に引っかかって、顎は裂けてしまったが、かろうじて逃げきった魚のことを考えてみよう。その魚は疑似餌に似たものを危険なものとして回避するだろう。その結果、疑似餌ではない本当の餌を取り逃がしているかもしれないが、疑似餌の危険から逃れていることも確かである。そのようにある意味を生みだし(疑似餌の危険性)、餌からそれを排除するという意味で、どんな生物も解釈をする批評家だと言える。
 
 パブロフの犬はベルを鳴らすごとに食物を与えることによって、ベルの音で唾液を出すようになる(条件反射)。ある動物では、一定の高さの音と食物とを関連づけることもできるという。ベルや一定の高さの音が意味となり、食物が与えられるという解釈を生みだすわけだ。
 
 それに続くワトソンは、意味の「転移」が可能であることを示した。ある子供が、叩かれているときに、常にその傍にウサギのぬいぐるみがあったとすると、ウサギのぬいぐるみに叩かれるという意味が付与される。ぬいぐるみばかりではなく、毛皮や毛布など、似た感触をもつものも恐怖を与えることができる。解釈の幅がより広がっているわけだ。
 
 ゲシュタルト派は、そうした幅が関係性からも生じることを証明した。たとえば、大きな箱Aと小さな箱Bを用意し、常にAの方に餌がはいっているようにする。次に、Aを取り除き、Bよりも小さな箱Cを用意すると、より大きなBの方に餌を求めることがわかった。大小という意味、文脈も理解し、それを解釈することができるのである。
 
 確かにこうした意味の生産とその解釈とは行動をより効率的にする。ある高さの音やより大きな箱に素早く対応した方が餌がすぐに手に入るし、ぬいぐるみに似たものに近づかなければ不快は避けられるかもしれない。だが、こうした訓練は実は訓練された以外のことについての無能力ということをも意味している。
 
 最初にあげたもっとも単純な魚の例をとると、確かにこの魚はある種の疑似餌には引っかからないという長所を得たが、同時に、疑似餌によく似た本当を餌を取り逃がすという欠点も得てしまった。さらに、ある音と餌とを条件づけたのが好意的な?実験者だからよかったようなものの、餌を求めて集まってきた動物たちの首をすべてはねてしまったらどうだろうか。そこには行動主義的な悪夢が生じる。そうした場合、条件づけを学習したなかった動物、効率性が悪いと思われていた動物の方が賢明な選択をしたと言えるだろう。
 
 同じことはある程度人間にも当てはまる。ある業種に習熟することは、いわゆる「スキル」をあげ、効率性や大きな成果に結びつくかもしれないが、反面、それだけに拘泥することはその他の部分での無能力を背負うことになる。
 
 このように、解釈を生物にまで広げて定義し直したことは、当時盛んに用いられたとおぼしい(現在でも用いられるが)「逃避」というような言葉の濫用を防ぐためでもある。不満足な状況を回避して、より心地よい立場を求めることは人間にとってごく正当なことである。
 
 だが、「逃避」という言葉が用いられるとき、多くの場合、否定的な意味合いを伴っている。現実を直視しないで、~に逃避する、というのがそのごく一般的な用法である。社会的に悲惨な状況を客観的に描くリアリズムより、豪奢な文体や色彩で幻想的なことを描く芸術のほうがより「逃避的」なのだろうか。タヒチに移住したゴーギャンは「逃避的」と言えるのだろうか。「逃避」という言葉による批判は、批判されているものの特徴よりも、批判しているものの視点がどこにあるかをより如実に示すものとなっている。
 
 より最近の例をあげるなら、戦争とテロとの言葉の使い分けがある。特に湾岸戦争以来顕著なことだが、アメリカ政府(追随する日本政府も)は自国でなんらかの破壊活動があった場合には「テロ」というレッテルを貼り、わざわざ出兵して空爆で相手国の市民を巻き込んだとしても大義のための「戦争」と呼ばれる。
 
 私には不思議でならないのだが、たとえアメリカ政府のいうことがすべて正しく(ブッシュの場合はまったくのでたらめだったわけだが)、大量破壊兵器を準備し、あるいは化学兵器によって大量虐殺が行われたとしても、相手国には対抗する手段もないような最新兵器によって空爆するような行為を「戦争」といってもいいのだろうか。
 
 最新鋭のドローンはもはやゲームのようにスクリーンに目標を設定するだけになっている。戦争とは相互的な戦いと考えてしまう私にとっては、一方的な攻撃は袋だたきにしか思えないのだ。最新の兵器もなく、国の中枢に近づくこともできない相手国にとって、善悪は別としていわゆる「テロ」しか手段がないのが現状である。
 
 「戦争の形が変わった」「テロは貧者の戦争である」とはよく言われることだが、こうした言い方そのものがこの二つの言葉のいごごちの悪い併用をあらわしている。なにかより中立的な言葉が望ましく、いまのところ既に使われている言葉ではあるが、「武力行使」や単に「攻撃」というぐらいしか私には思いつかない。