生=死という語彙を手に入れるために

 

A. I. (字幕版)

A. I. (字幕版)

 

 

 

 

 

 

 

黒いユーモア選集〈1〉 (河出文庫)

黒いユーモア選集〈1〉 (河出文庫)

 

 

 

黒いユーモア選集〈2〉 (河出文庫)

黒いユーモア選集〈2〉 (河出文庫)

 

 

 

新校訂 全訳注 葉隠 (上) (講談社学術文庫)

新校訂 全訳注 葉隠 (上) (講談社学術文庫)

 

 

 

自我論集 (ちくま学芸文庫)

自我論集 (ちくま学芸文庫)

 

 

 動物と人間が決定的に異なるのは、人間には言語があり、嘘をつくことが可能だということにある。動物行動学で研究されたミツバチのダンスなど、コミュニケーションに近いものは動物にもあるが、文字などによる知識の蓄積の手段がないだけに、文化の発展が見られない。
 
 言語の使用と関係があることだが、人間には様々な動機がある。動物にあるのはおそらくライバルに勝ち、自分の種族を残すことだけだろう。人間の動機には性欲もあれば、支配力も、愛情も、祖国愛も、ある種の悟りのようなものもあり、精神分析学派の分裂は、主たる動機をなんであるかとする考え方の相違にあるともいえる(実際にはその人間が生活している国や文化にとってどんな価値が優先されているか、その人間が現にどんな状況にいるのかによって様々な動機が複雑に絡みあうことが考えられる。たとえば、深遠な問題に頭を悩ませている哲学者にしても、歯が痛ければ痛みを取ることに強い動機が働くだろうし、動機に関係することが直接的にあらわされるかどうかも不確かである。現在の日本では、貧困が問題になっているが、実際に貧しい者たちは、貧困の原因である政治的社会的原因に向かうよりも、同じ貧困者を貶める傾向があるように思える)。言語と動機の相違から嘘も含めて行動の説明の必要が生じる。言語化することは同時に社会化することでもある。
 
 人間が主たる動機を中心にして自分なりの世界を組み立てる経緯をケネス・バークは敬虔さと名づけた。別な言葉で言えば、様々なものに対して与える象徴的意味、あるいは価値によって世界を構築することを意味している。
 
 哲学者であれば、ハイデガープラトン以前の古代ギリシャ哲学の「存在」に戻ることを願い、そうした「存在」によって構成される世界を考えようとした。陶工なら、われわれにとってはただの土に過ぎないものに、敬虔さをもって臨み、大きな象徴的価値を与えるだろう。象徴的価値は客観的事実とは異なるから、科学よりはむしろ魔術や宗教に近い。
 
 もっとも科学と魔術は、しかるべき手段をとればしかるべき結果が生まれる、つまり自然の一貫性を信用している限りにおいて考え方においては近い位置にある。ただそれぞれにおいて合理的手段とされるものに大きな隔たりがあり、魔術の方が象徴的価値の働く余地が大きい。バーク自身は、百獣の王であり、男性的で雄々しさの象徴であったライオンが、動物学的に言えばネコかであることを知ったときの落胆を語っている。
 
 また、宗教と科学もその働きにおいて似ている。イエス・キリストは、親兄弟を捨てて自分の教えに従えと説いた。それは家族という大きな象徴的価値を破壊するものだった。同じように、精子バンクや冷凍卵子代理出産によって子供を得るという行為も、家族というものの象徴的な価値を大きく変化させる。どちらも古くからある象徴的な結びつきを解体し、新たな意味を産出している。
 
 ニーチェのような人物が行ったのもまさしく、古くからの結びつき、カテゴリーの再秩序化だった。「生の哲学者」として知られるベルグソンが再価値化を行った思想家の代表として取り上げられているところは、私にはまさしくベルグソンの意味を見直させることになった。まさしく、メルロ=ポンティ現象学派の先駆者としての姿が描かれている。
 
 ベルグソンが示唆するところによれば、形而上学者たちの偉大なる総合とは、我々が実在を実際的に扱う際の単なる言語的区別であり、宇宙の本質としては決して正当化されない論理的或は概念的区別を宇宙論として結び合わせた図式である。この意味において、もともと存在するわけではなく、便宜の目的で発明された様々な差異を調停するために洗練された体系を打ち立てている形而上学者は、疑似問題を解決しているに過ぎない。
 つまりこうである。惑星は引っ張る力と押し込む力とのなんらかの協定によって動いているのではない。ただ単にある行路を進んでいる――そしてこの行路は、それを引力と斤力の総合として算定したときに、天文学上の計算に役立つよう概念化される。現実の運動そのものが総合であり、決してそれ以外ではない。言葉というのは必然的に塊になっており、実在をばらばらにしてそれをいくつもある全体として扱うので、概念化は正反対のものを結びつけることになる。しかし、運動ではなく、引力と斤力という二つの概念を結びつけることで総合の図式を得ようと力を傾注する者は、実在に関しては疑似問題を解決している。(中略)
 実在に最も近づく言語的取り組みとしてベルグソン氏があげているのは、意図的に矛盾する概念を開拓していくことである。彼が言うには、それは実在の全体を与えてはくれないだろうが、自然の出来事の概念化が実在だという仮定からよりは多くのものを与えてくれるだろうし、自然における実在を反映するかのような思考や表現に必ずつきまとう不適切さについて慎重になるよう才気ある人間を促すには十分なほど根本的であろう。定立、反定立に続くヘーゲル的な総合を求める代わりに、出来事の実際の過程というのは、いつでも、必然的に統一されていることを彼は我々に悟らせてくれるだろう。我々は――哲学者として――有機体の同化過程を異化過程とまったく異なったものとして語るべきではないし、両者を結びつけ、代謝作用を捉えることのできる枠組みを見つけだすのに悩むこともない。総合的な言葉がいまだ与えられていないような場合には、相反する言葉を結びつければいいと彼は示唆している(この提案は、空間-時間や精神-身体といった現代の用語法で受け入れられているだろう)。(『恒久性と変化』)

 

 
 科学が客観的にして中立で、芸術が主観的、なんらかの主張が含まれているという区別をすることはできない。例えば、隠喩は文学における修辞のひとつと考えられているが、科学もまた隠喩の力によって発展してきたと言える。
 
 ニュートン的な古典的物理学は人間を神の壮大な計画の一齣として、量子力学は不確定な近代以降の世界の一部として、進化論者は動物として、サイバネティクス人工知能の研究者は機械として、つまりそれぞれの隠喩にもとづいて発達していった。
 
 類推と隠喩によって人間はある方向に拡張され、変容される。そうした意味で、近年もっとも力をもっているのは、遺伝子学をもふくめた情報理論の進展だろう。極限までいくと、人間は情報の束に過ぎないことになる。それは人間が身体としての具体性を失うことでもあり、人間と機械との境界がますますあやふやになることでもある。
 
 将棋のトップ棋士がAIに破れた。コンピューターには棋風がないとも、プロ棋士の読み筋にない手をさすともいう。しかし、翻って顧みれば、筋にない手を指すこと自体は勝つ事の必須条件だとも言える。更に言えば、勝つことを目的としてプログラムが組まれていることも考えるべきで、人間に似せようとしたわけではなかった。
 
 将棋はチェスと同じように勝敗を決めるゲームであるから、コンピューターにとっては成果がはっきりしていて、目標としやすい。そしてまた注目も集めやすい。だが、実際に人間が情報の束に過ぎないなら、将棋などに限定されることなく、人間と機械との差異はどこにあるのだろうか。あり得ないことのたとえとして、猿がタイプを打ってシェイクスピアの作品になるようなものだというが、文学などについても、少なくともこれまでの平均的な水準のものをつくりだす位のことならできそうな気がする。
 
 辞典にのるほどの語彙はせいぜいディスク一枚で済んでしまうし、場景と会話との比率、語彙選択の傾向など細かいところを決めることができれば、ロシア・フォルマリストの研究以来、物語のプロットは限られた数しかないことがわかっているので、それ程遠くない将来に実現できそうだ。
 
 感情や衝動なども、いままで機械に効率性が求められてきたから無視されていたが、大きな意味で刺激に対する反応なのだとしたら、それもまた情報であり、機械によって再現できるものとなる。スピルバーグの『A.I.』のようなことがありうるわけで、映画では、子のできない夫婦に買われた人間の子供そのままの姿のロボットが、夫婦に子供ができたことによって捨てられ、母親を恋い慕ったロボットは人類が亡びた後も動けなくなりはしても姿を保ち続け、のちに地球に到達した異星人に発見されて、母親との甘美とも言える美しい一日を与えられる。
 
 子供があらわす幸福な表情は、しかしながら、プログラムされたもので、異星人にとっては亡びた人間とプログラムされたロボットとの相違はわからないかもしれない。私もまた複雑な感動を味わった。
 
 これと対照的なのは『攻殻機動隊』である。士郎正宗のマンガが原作の『攻殻機動隊』は押井守が二度にわたって映画化し、それ以降も映像化されている。近未来の、電脳化と義体化(義手や義眼がより発達したものと考えればよい)が発展した世界で、脳以外は人工物であることも可能になっている。そうした世界で性質が変わってしまったテロや政治的判断が必要とされる事件を扱う公案9課の活躍を描くものである。
 
 そのTVシリーズでもっとも感動的だったのは、タチコマに関わるエピソードだった。タチコマロボットコンテストにでてくるような人間をまったく感じさせない形なのだが、人工知能を搭載している。
 
 そして、スペックは同じであり、情報は並列化されているはずなのだが、本ばかり読んで哲学的思索に耽るもの、演説をぶちたがるもの、おとなしめのものなど微妙に個性化されはじめる(声はいずれも玉川紗己子で、幼児のようなかわいい声であることは共通している)。シリーズで私にとってもっとも感動的だったのは、このタチコマたちがいわば自己犠牲の精神で、9課の仲間をぼろぼろに破壊されながら救う場面だった。
 
 原理主義的な立場をとるなら、人間であろうが機械であろうが、気に入るものはいるし、いらないものはいらない、と割り切れば済むことだが、より問題なのは、様々な機械化によって人間の労働力は必要でなくなり、余暇はより多くなり、生活の水準も上がるはずだが、実際には決してそうはならないことである。
 
 高度なテクノロジーはより少数の権力者や企業に牛耳られることとなり、彼らはそれを手放そうとすることはないだろう。人間が情報の束であるとしたときに本当に憂慮すべきなのは人間と機械との境界などではなく、人間が機械によって対処されるものとして定義されることにある。
 
 人間と機械は対立するものと考えるべきではなく、ベルグソンのように、あるいはラ・メトリのように人間=機械として考えた方が実りがあるのではないか。こうした一見不調和なものを結びつけるのものには、ユーモアやグロテスクがある。
 
 ケネス・バークは両者についてちょっと変わった見方をしている。フロイトによれば、ユーモアとは現実に対する自我の勝利であり、アンドレ・ブルトンによる黒いユーモアもそれを踏襲している。ブルトンがアンソロジーに編んだ黒いユーモアの体現者たちは、どんな悲惨な境遇にあろうとも、悲惨さに屈することなく自らを貫いた。
 
 ところが、バークは、ユーモアには、対象を踏みにじっていると思われるときでさえ、対象を含む判断のカテゴリーに対する敬虔さが混じっているという。例えば、黒魔術を実行する背教者たちは、いくら冒涜的行為をしようとも、その力はそれに注がれてきた敬虔さが大きければ大きいほど強くなるわけで、裏返しにされた敬虔さとも言える。
 
 いわば価値には価値を対立させるわけで、ユーモアの対象となる価値が毀されたとしても、別の価値が確立され、まさしくその場に価値を認めるような思考形式そのものは温存されている。ブルトンが取り上げた人物たちは、確かにブルジョア的な価値を踏みにじっているが、その代わりに黒いユーモア的な価値を確立しているとも言える。
 
 一方、グロテスクはより革命的であり、そこに価値をあること自体を認めない。ポオは自身の作品集に『グロテスクとアラベスクの物語』と名づけたが、様々なジャンルを創始したポオは、ブルトンのアンソロジーにも含まれているが、対立する価値ではなく、新しい価値を生みだしたという点で、ユーモアよりはグロテスクに近いと言えるかもしれない。
 
 バークは、より古典的な例として、アリストファネスは敬虔さに傾いており、ソクラテスは不敬件に傾いていると言っている。(このことで思い起されるのはフレデリック・ジェイムソンによるパロディとパスティッシュとの違いである。パロディにはその対象について、愛にしろ憎しみにしろ、感情的な負荷がかかっているが、パスティッシュにはそうした負荷がなく、無表情に行なわれる。)
 
 こうした文脈でバークが精神分析を描いているのは興味深い。精神分析で「治療」と呼ばれているものは、畢竟するところ、「不敬虔な合理化」である。フロイトが強調する科学的用語は、患者の感情的な悩みや苦しみとはまったく調和しない。性や死といったフロイトが主として取り上げる主題は、もちろん人間に根本的な問題だということもあるだろう。また、批判者のなかには、十九世紀のヴィクトリア朝に見られるような偽善的で、性的抑圧が強い社会でしかあてはまらない、と説く者もある。
 
 だが、「それは不敬虔な合理化であり、患者の苦痛に満ちた動機の語彙に取って代わる新鮮な動機の語彙を提供する。その科学的用語は、悩みの非科学的な性質と全く調和しない。患者の不幸のもとにある祭壇に故意に不敬を働き、生活様式や禁忌が命じることを特に踏みにじるような語彙を選択することで、問題の性質を完全に変え、解決があるような形に言い換える。それが治癒効果をもたらす限り、新たな科学的定位の威信に訴えかけ、痕跡として残る宗教的定位の苦痛に満ちた影響を祓うという結果になろう。」というバークの言葉が正しいとするなら、問題はフロイトが時代や場所によってその寛容さが様々に変わる近親相姦や様々な性的倒錯を執拗に論じたことではなく、まさしくフロイトが生きた時代や場所であったからこそそうした論点が強い影響力を持ち得たのだというべきだろう。そしてそれらが人間の本質と切り離せない限り、これからも影響を与えつづけるだろう。
 
 性に関する事柄は相当に風化しており、死についての画像や映像も、満ちあふれているが、「死の欲動」というフロイトの考え方はいまだに謎めいている。ある意味でこの概念は、人間=機械が人間のなかに機械を見いだし、機械のなかに人間を認めるように、生=死ともいうべきものであるが、生のうちに死を見いだすことはしばしば行なわれているが、死のうちに生を認識することはその方法でさえいまだ見いだされていないというのが本当のところだろう。
 
 『葉隠』には「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」とあるが、そこに見いだされるのは死のなかに生を認めるということよりは、むしろ死によって生を賦活し、生活を律するためのものだった。花田清輝は、山本常朝を十八世紀フランスのモラリストに比較し、大勢の前で演説を請われるやもごもごと口ごもってしまうが、人間に対する鋭い批評眼を決して失うことがないのがモラリストだといったような意味のことをいっていたが、
 
 事実、『葉隠』には決してファナティックな「思想」などはなく、武士であるからには、死を前提として行動するべきであり、それを始動させるための生活のあり方が淡々と描かれているだけなのだ。