機械のなかの幽霊ーーサド『悪徳の栄え』

 

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)

 

 

 

悪徳の栄え〈下〉 (河出文庫)

悪徳の栄え〈下〉 (河出文庫)

 

 

 『悪徳の栄え』は、題名通り、悪徳を体現するかのような怪物的人物たちが思いつくかぎりの快楽を享受し、美徳とされているものが彼らの快楽の道具として虐殺されていく。

 

 怪物的人物のひとり、サン・フォンは「わしがこの告白をするとなれば、わしの心の弱みをさらけ出すことになるのだよ」といいながら自分の欲望を述べる。

 

わしらが殺す相手を天国の至福にあずからせないようにするためには、心臓から絞り取った血でもって、悪魔に魂を譲り渡す約束の証文を書かせ、次にこの証文をわしらの陽物でもって、その男の菊座に押し込み、その間この男が堪えられるだけの最も大きな苦痛を課さねばならない。

 

 

 同席するクレアウェルやジュリエットの反応はいたって冷淡なものであり、サドの作品を通じて最もよく目にすることのできる議論でもってこれを攻撃する。

 

 宗教に関わることはすべて、神も天国も地獄も人間がつくりあげた幻影に過ぎず、当然死後に残る魂などはたわごとでしかない、魂と呼ばれているものは、なにか高級な目に見えない精神性なのではなく、物質の作用によるものである。そして、魂も含めてすべてが物質に還元されるものである以上、善悪という単なる人間的な基準でしかないものは問題とするに足らず、ただ現在の快楽のみが追求されねばならない。

 

 このいかにも十八世紀らしい機械論的唯物論による神の全面的否定の後で述べられるサン・フォンの思想とは次のようなものである。

 

 神も霊魂も存在しないのであるから、当然来世も地獄も存在しないというのでは、論点先取、証明すべきことを仮定することになる。

 

 むしろ思い切って神の存在も霊魂の不滅生も認めてしまえばいい。そうすると、この宇宙、世界を覆っている悪、無秩序、罪こそが神の本質であり、神が世界を作り、維持する際のエネルギーとなるものであって、それならば、クレアウィルの唯物論が、物質ー人間ー物質というサイクルを論じることができたように、絶対的悪である神ー人間ー絶対的悪である神というサイクルを認めてもいいはずであろう。

 

 善と呼ばれているものについて言えば、神が悪しか要求しない以上、それは価値として測られることはなく、善人は単なる弱者である。

 

 善人は悪の分子に対して無垢であるから、死後、悪の神に併呑されるとき異質な力の侵入に多大な苦しみを受けねばならない。肛門に押し込まれる証文とは、犠牲者をとりわけ悪の中心に近づける保証書であり、死後も永久に犠牲者が苦しみ続けることを確かなものにしてくれる。

 

 クレアウィルとサン・フォンの哲学の相違はいくつかのことを浮き彫りにする。一見するところ、二人の考えにさほどの違いはないように思われる。

 

 クレアウィルが物質と言っているところでサン・フォンが悪としての神と言っているだけであって、人間がそこから生まれ、そこに帰って行くサイクルを形成することについては、両者ともに同じ構造をもっているし、物質にしろ悪としての神にしろ、自然や人間に及ぼす結果はほとんど変わらないからである。実際、快楽や趣味については二人の意見はほとんど一致する。二人の相違が決定的になるのはサン・フォンの次の言葉においてである。

 

 

悪意の最高段階なしには、いかなるものも宇宙においては維持されない。悪はやはり精神的存在であって、決して創られたものではない。悪は永遠不滅の存在だ。それは世界以前にも存在していた。そしてこんな奇妙きてれつな世界を創造するがごとき、呪わしい怪物的人間を生み出した。

 

 

 至高の存在が精神的存在であることが両者を根本的に分かつ。精神的であることにおいて人間が至高の存在とが結びつくとき、クレアウィル的な世界観、おおむねにおいてサドもそちらに荷担しているのだが、無機物から植物、動物、人間までがすべて同一の原理によって生起し、死滅するあらゆるものの絶対的な平等が成立しなくなる。

 

 したがって、クレアウィルの提案、「同じ人間を出来るだけ永くかかって苦しめるという考えは、最大多数の殺戮という考えに切り替えるべきよ」は受けいれがたいものになる。

 

 絶対的平等があり、人間の存在を含めたすべての事物が同価値であるならば、量の大きさはそこで消費されるエネルギー、結果として生じる破壊の大きさなどによって快楽(自然の破壊的本性をなぞることによって得られるもの)を保証するのだが、精神が介在するや、量はもはや快楽を決定づけるものではなくなり、享楽の終わりのない反復自体に澱みをもたらすことになる。

 

 享楽の反復における独我論的な主体の単独性が揺らぎはじめ、その主体に対抗する他者が現われる。

 

 死はサドの作品のほとんどにおいて、なんら特別な瞬間を形づくることはない。死は物質の様態の変化であるに過ぎず、言うなれば固体が液体に変わる程度のことでしかない。快楽の量はまた死体の量でもあり、犠牲者はサド的な饗宴が催される際の消費財なのである。

 

 ところが、その犠牲者が精神を有し、サド的強者が幻想のなかで永遠に快楽を享受するように、地獄において苦痛を受け続けるのだとすると、消費財であったものは、その道具的存在から抜けだして同等のものになる。欲望の自転運動のなかに関係性が入り込み、倫理的なものが見え始めるのである。

 

 サン・フォンにとって、犠牲者の単なる死は、自らの憎悪や快楽の要求には不足であり、そこには弱者ではあるが精神的であるがゆえに対等の他者がいるので、両者のあいだに生起した情動や記憶は解消されないしこりとして残る。それを消去するためには、犠牲者が世界のなかで占めていた意味の結び目が常に否定され続けられねばならない。

 

 逆に言えば、犠牲者はサン・フォンにとりついているものであり、それを除去することは彼の快楽の永久運動を決定的に阻害する。そして、サン・フォンの存在は、それ自体、よりサド的だともいえるクレアウィルやジュリエットのような、どれほどひどい拷問を受けても次の饗宴の折には再び傷ひとつない輝くような肉体を取り戻している変化することのない幻想の主体、外的な移り変わりを楽しみながらも決して自らは変わることがなく、変容の契機を排除し続ける主体を脅かす思いがけない他者として現われる。