影なき男ーー安部公房『壁 IIバベルの塔の狸』

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 

 

ボリス・ヴィアン全集〈4〉北京の秋

ボリス・ヴィアン全集〈4〉北京の秋

 

 

 安部公房ははじめて好きになった作家で、『壁』も何度か読み返しているが、ここ2~30年は、『砂の女』以降の新潮社の書き下ろしシリーズを主要な発表の場所とした作品群は読み直すことがあったが、初期の作品については手を伸ばす機会がなかった。

 

 いまさらになって気がついたのだが、私は『壁~S・カルマ氏の犯罪』というのが独立した作品としてあり、『壁』という単行本を出版するのに、別な短編として『バベルの塔の狸』と『赤い繭』が加えられたのだと思っていた。実際は、『壁』という総題のもとに、三つの作品がある。

 

 しかし、この『壁』という総題にふさわしいのは、やはり、『S・カルマ氏の犯罪』であり、それぞれが内容的に連続しているわけでもない。『S・カルマ氏の犯罪』と『バベルの塔の狸』はほぼ同じ長さであり、『赤い繭』は「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」という4編の短編を集めたものである。

 

 安部公房というと、カフカリルケシュルレアリスム実存主義からの影響をいわれることが多いが、本人もいっているように、初期の作品ではルイス・キャロル的な要素も多く、特に『バベルの塔の狸』では、少しでも前提に妙な要素が入り込むと、論理的必然がファンタジックなものに変貌する、というキャロル的な要素が歴然としている。また、この作品に限ったことではないが、詩や詩人の存在が、孤独な営為を続けることの重要な象徴物となっている。

 

 この作品の「ぼく」は「貧しい詩人」で、公園に行っては、ベンチの前を行き過ぎる女たちの脚を見ることを楽しみにしている。「女たちの脚は、戦慄の曲線です。」という言葉などは、モダニスム詩を強く連想させる。そして、本人が言うところの「科学的な発明」や未完成の詩を「とらぬ狸の皮」と名づけた手帳に書き留めていた。

 

 ある日、「ぼく」が公園にいると、妙な動物が現れて、影を咥えられ、持ち逃げされてしまう。ここで、ルイス・キャロル的進行が続く。影がないということは、影の原因である身体は消え去っている、しかしそれらすべてを見る目だけは消えることがないのである。宙にさまよう目となった「ぼく」の前に、影を持ち去ったとらぬ狸が現れる。

 

 この狸に案内されて、「ぼく」はダンテ狸やアンドレ・ブルトン狸のいるバベルの塔に入り、エホバが受付をしている目玉銀行で、存在の最後の一片である目玉まで取り上げられそうになる。

 

 だが、バベルの塔が完成されることなく、神の怒りによって散り散りになり、普遍言語が各種の言語になったのであれば、バベルの塔自体がとらぬ狸の皮算用であり、潰えるしかないもので、小説は『不思議の国のアリス』とまったく同じような結末を迎える。

 

 特にそのアイデアが展開されるわけではないが、「ぼく」が手帳に書きつけたアイデア、「食用鼠」「時間彫刻器」「倒立式絞首台」「人間計算図表」などは、この作品が発表された昭和26年(1951年)という時期からいえば、昭和8年(1933年)に死亡し、シュルレアリストたちに大きな評価を受けたレーモン・ルーセルや、昭和21年(1946年)にすでに『日々の泡』を書き上げたボリス・ヴィアン(ヴィアンの『北京の秋』には安部公房が跋文を寄せている)を思わせるものがあって、彼らについて、又聞きくらいはした可能性はあるが、日本で紹介されたのは遙かに後年だったわけで、彼らの作品を知ったときには、思いがけぬところで知己に出会った気がしたに違いない。