流れと渦ーー朝吹真理子『流跡』

 

流跡 (新潮文庫)

流跡 (新潮文庫)

 

 

 時間はしばしば川の流れに例えられる。しかし、我々は流れそのものに時間を感じるわけではない。たとえば、岸が見えず、杭もなく、水面に浮かぶ塵芥や水泡もない流れの上で、水流を視覚や触覚で確認できないとすると、我々はそもそもどちらに流されているのかさえ感じることができないだろう。

 

 岸が見えていたとしても、流れの上にいると思っていた我々が実は止まっており、岸が動いているというようなこともあるかもしれない。あるいは、少し流れの速い川に入った経験のある者なら、みるみる平衡感覚が失われていくような失調感をおぼえたに違いない。

 

 要は、川の流れというのは、等間隔に刻まれていく「正常な」時間を裏づけるというより、時間の方向や速度についての我々の先入観や感覚を容赦なく掻き乱すような存在なのである。

 

 朝吹真理子の『流跡』はプロローグとエピローグめいた文章にはさまれた三つの部分から成り立っている。最初の部分は、夜の川で「よからぬもの」を運ぶ舟の船頭の話で、彼は「ちょうど川と川の筋が合流する界面に舟を運ぶときは自然と身が強張る。時に合流する刹那に川筋の次元がずれてもとの水脈から切り離されてしまうことがあるという。違う川筋にはいるのではない。もともすえもない、くろぐろとした水たまりのなかを、もとの流れと接続するのを待って漂いつづけねばならなくなるらしい。永遠に接しあわないままかもしれない。そこを竜宮や墓場<おくつき>だと言ったりする。」と現実と異界との際に棹さしているような船頭なのである。

 

 第二の部分は、妻と幼い子供の三人で暮している男の話で、「不慮の事故」で死んだ同僚の葬式に参列したり、発話が遅れている子供のことで妻と喧嘩したりする。三つのパートのなかでは唯一「現実的な」事柄が描かれている。

 

 第三の部分では、定かではないなにかから逃れて波止場に行き着いた女が船を待つも一艘もあらわれず、明るさを求めて立ち寄った浴場で、「したたる水が体外に溢れだしてゆく。生のさかりにあるものもないものも男も女も同じように融滌する。あたたかさが骨のすきまからしたたり、ひたすらひとやひとでないものの唇を吸うごとにあるいは吸われるごとに、ともぶれし、たがいの身体からあたたかさがはみだしてゆく。輪郭がゆるくなり総身に罅がはしってうちに溜まっていたすべての液体があふれかえり、人体のこまやかな多孔質の皮膚からすべてあふれてゆく。歓喜も憎悪も悪意も諦念も、どろどろとした黒いのも赤いのも白濁したのもとうめいなのも液体という液体がひたすらとろけ浴槽をみたし熱い湯になる。湯気を立ててざぶざぶ浴槽からあふれ、そのまま海に流れた。」といった具合に緩やかにその輪郭を解きながら液化してゆく。

 

 ところで、この三つの部分を結びつけるものはなんなのだろうか。終わり近く、「ひとやひとでないものたちが、行きつ戻りつ、迂回と途絶をくりかえし、時には踏み外し、ことばのなかで転びながらうごきつづける。その一挙手一投足が間断なく書かれる。しかし、いくら精確に書こうとつとめ執拗に書きしるされたとしても、書かれたものは書かれなかったものの影でしかなく、いつまでも書き尽くすことはできない。」とあるように、それぞれのパートはある流れ、言葉のうねりが生みだす渦のようなものなのだ。

 

 第一のパートの冒頭にある「人になった」、第三のパートの冒頭にある「女になっていた」という一節が、どの部分も「ことばのなかで転びながらうごきつづける」ことで紡ぎだされたものであることを示している。そして、渦を生みだすほどの強いうねりがこの作者のスタイルにあることは既に引用した部分からもわかってもらえるだろう。

 

 それだけに非常に残念な気分になることも確かで、それは、我々の方向感覚や時間の感覚を失調させるような流れそのものの姿があらわれないことから来ている。

 

 エピローグに当たる部分では、いままさに終わろうとする書くという行為が自己言及的に描かれるのだが、その行為がなぜ他ならぬこの三つの物語を生みだすにいたったかは明らかにならない。

 

 たしかに、川、雨、海及び浴場という水のイメージが連鎖しているが、統一感をもたらすにはあまりに弱い。いってみれば、ここにそしてあそこに渦があるよ、と示してはくれるのだが、そうした渦をつくりだす流れが描かれることはないのである。

 

 「人になった」「女になっていた」と一言で片づけられているが、本来、その変身こそが描かれるべきであり、対象を明確な輪郭に確定するよりは、不定形に拡散する様子を描くことに長けた作者のスタイルもそれにふさわしいように思える。渦の魅力に感じ入ることに否はない私であるが、渦の最大の魅力は流れが渦へと変わるその変貌にこそあるとも思う。