壁というユートピアーー安部公房『壁 S・カルマ氏の犯罪』

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 安部公房は北海道の出身であり、代表作といえば、必ず『砂の女』ははいるだろうし、エッセイ集には『砂漠の思想』があり、長編の第一作目である『終りし道の標べに』は満州の荒野が舞台になっている。日本の湿潤な私小説的風土、箱庭的空間を嫌い、共同体意識に粘りとられるかのような日本的人間関係を離れ、空漠たる砂漠や荒野と、共同体とは異なる実存のあり方を問うた、と文学史的には言えるのだろうが、ことはそれほど単純ではない。

 

 そもそも、『終りし道の標べに』で、主人公であり、残されたノートの書き手は、匪賊に最後まで捕まっているのであり、『砂の女』でもまた、昆虫採集に砂丘に訪れた男が、砂のなかに落ち込んで捕らえられ、最後に砂の穴から脱出することに成功するが、自らの意志で砂のなかに帰って行くのである。荒野や砂漠は常に背景にあり、より近くにある粘り着くような人間関係から主人公は脱出できない、あるいは砂のような絶対的な流動性に対してともに戦うことを選択する。

 

 『壁 第一部 S・カルマ氏の犯罪』は、カルマ氏がある朝、目をさますと、なにかしら変な気分がする。胸のあたりが空っぽになったような感じだ。食堂に行ってつけの帳面を書くときになって、自分の名前が出てこないことに気づく。仕事机にいくと、自分の名刺が自分の代わりに仕事をしている。どう対処していいかわからないカルマ氏は、とりあえず病院に行く。待合室で雑誌を見ていると、地平線まで広がる荒野の写真が載っていて、空っぽの胸がその荒野を吸い込んでしまう。

 

 その後、動物園に行った彼は、胸の空虚が生む陰圧によって、ラクダを吸い込んでしまったらしい。現行犯として捕まって裁判にかけられる。その後、同じ会社のタイピストの「Y子」と動物園にデートに行き、父親である「パパ」とも話をするが、どちらも彼の苦境を救ってはくれない。

 

 様々な奇妙な出来事が起きるなかで、世界の果てに関する講演と映写会が催され、講演者によって、壁のひとつの意味が説明される。地球が平たい板で、四頭の白象によって支えられていると考えられたときには、世界の果てとは辺境であり、都市とは離れた低密度の空白地帯だった。しかし、地球が球体として認められるようになると、世界の果てという概念も変貌した。

 

つまり、地球がまるくなったので、世界の果は四方八方から追いつめられ、そのあげくほとんど一点に凝縮してしまったのですね。お分りでしょうか?もっと厳密に言えば、世界の果はそれを想う人たちにとって、もっとも身近なものに変化したわけなのです。言いかえると、みなさん方にとっては、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線にほかならぬ。

 

 

 壁とは人間の実存の根拠である時間や空間を限定する。我々が日常において囲まれている部屋の壁であり、それは、図式的にいえば、疎外された状況をあらしている。しかし、『壁』という小説の偉大な発明は、限定するものとしての壁をユートピア的契機に反転した離れ業にある。

 

 『砂の女』において、非日本的な風土である砂漠が舞台になりながらも、エキゾチックでロマン主義的な感傷ではなく、常に支えどころのない流動体としての砂に焦点が当てられていたことをみれば、安部公房を支える物質的想像力には砂とともに水があることは容易に気づかされる。『水中都市』があり、『第四間氷期』では水棲哺乳類が登場する。この小説でも、病院の待合室で荒野を吸い込んだカルマは涙を流し、中盤で、この小説でも屈指の、変身への、ユートピア衝動の結露ともいうべき一節がある。

 

 あたりの景色が水につかったようにうるんで見えました。視野の輪郭に夜光虫のようにきらめくものがありました。流れに漂う木片のように、ぼくはあてもなく目の中に流れて行きました。

 

 

 

そして、最後の一節。

 

 見渡すかぎりの曠野です。

 その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。

 

 

 水と曠野と壁とが照応し、限定するものであったはずの壁が果てしなく成長していくものとなり、ヘラクレイトスの世界のように、流動する世界像が提示される。