大きな静まりとハードボイルド--佐伯一麦『誰かがそれを』

 

誰かがそれを

誰かがそれを

 

  バラエティに富んだ内容で、これまでの、そしてきっとこれからの佐伯一麦作品のエスキースとなるものを集めたかのような短篇集である。夫婦の日常から、伊達政宗の小姓が、政宗の十七回忌、松島の瑞巌寺で営まれた甲冑像の開眼供養に参列したことを期に、政宗の晩年を語るという体裁の「杜鵑の峯」まで八篇が収められている。


 「ケンポナシ」は、佐伯作品の読者にはおなじみの、小説家の夫と草木染めを仕事とする妻の、「誰かがそれを」「俺」は、草木染めのことこそでてこないが、やはり小説家の夫とその妻をめぐる話である。


 彼らは人気の少ない山の上に住んでいるのだが、これらの短篇が魅力的なのは、にもかかわらず、すこしも花鳥風月的な自然との馴れあいがないことにある。あるいはそれは、湿潤な繁茂する自然、移ろいゆく無常な自然とは対照的に、ここでの自然が硬質なものとしてあらわれているからだと言いかえられるのかもしれない。


 山毛欅の実、栃の実、団栗のつやつやした木の実。「自然染料で水色の美しい色を出してくれる」臭木の実は、枝に数粒しか実らず、しかもその実はいっせいに青くなるのではなく、陽当たりの加減によって同じ枝でも青い実、白っぽい実、熟しすぎてひからびてしまった実があって、染めるのに使える実はそう沢山は集められないという。

 

 また、より珍妙な実がある。パイナップルを小さくしたものとも、ホヤとも似たゴツゴツとした朴の実。きわめつけは「いつ見ても面妖だと思わせられる形」をしているケンポナシの実で、その名はテンポナシ(手棒梨)がなまったもので、節くれだった花序の柄に由来するのだという。グロテスクな形にもかかわらず、その茶色い花序を齧るとキウイに似た果肉があらわれ、洋梨に似た味がする。しかも、実の先を割るとつるっとした小さな根っこがあって、お手玉の中身にすることができるらしい(「ケンポナシ」)。あるいは、『ピロティ』に通じるマンションの管理人の話である「むかご」にでてくる小石とも節分の豆とも見まがうばかりの「子供の頃に抜けた虫歯」のようなむかご。


 だが、自然への安易な埋没を許さない要素としてより一層見逃せないのは、電気工としての過去の経験である。初期の佐伯氏の作品のなかには、見習いの青年が、先輩の電気工から、どんな場所でも地面から数十センチも掘れば、もはやなにが埋まっているかわからない、軽率な行為は命取りになる、と教え諭される印象的な場面があったと思う。なんらかの仕事や仕事場を舞台にした小説の多くが、仕事そのものよりは、やくたいもない情緒的な人間関係をぐずぐずと書きつづっているのに比較して、佐伯一麦は常に仕事の具体的な手順やその仕事がもたらす世界観を示してくれるのだ。


 「誰かがそれを」は、自宅のマンションで、焼きいも屋の笛の音とも、金属が擦れ合っているとも、モーターにも警報ブザーにも聞える音が鳴り続けていることに気づくことからはじまる。やがてその音は、隣の学生用のマンションで、高架水槽へ水を汲み上げる揚水ポンプが発している異音であることがわかる。それとともに、まさしくこうした音を消すこと、また、「何棟も立ち並んでいる高層住宅に、整然と切れ間なく外灯や階段灯、廊下灯などの明かりが点っている」「大きな静まりを実感させる光景」を管理することこそがかつての自分の仕事であったことを思い起こすことになる。

 

 そしてそれらが電気で維持されている限り、その場はこの山の上とも、そこから見わたせる夜の街ともつながっている。「橋の上に取り付けられたナトリウム燈の黄色い光の列。その中をゆっくりと、夜を徹して走る長距離トラックの光が動く。街へと差し出されている見えない手を、かれは夢うつつの中で思い浮かべていた」という眠れぬ夜の家のベランダからの風景は、山の上というよりは都会的なリリシズムを喚起する不思議な空間を形づくっている。


 それはまた別の面から見ると、「かわたれ」にも共通する眠れぬ夜が切りひらく空間でもある。「かわたれどき」とは「彼は誰」で、人がいないにもかかわらず、人の気配だけがするような、たそがれの「誰そ彼は」に対応するかのような夜明け前のひとときを指すというが、整然と光の点っている高層住宅や橋の上のナトリウム燈の光の列は、人工的で、人の気配だけはするが人がいない風景を生むことにおいて「かわたれどき」に等しい。このように、各人の生活に密着しているにもかかわらず、いったんその生活時間から離れるや、匿名へと変容する空間は都市に特有のものだ。


 そうであればこそ、「焼き鳥とクラリネット」や「プラットフォーム」の二篇のように、佐伯一麦がハードボイルドの優れた書き手であることに不思議はない。特に、ある街の、一見しもた屋に思える煤けた木造二階建ての焼き鳥屋に入った男が、三十前に見える若い年格好の女将とやくざものたちとのやりとりに立ち会うことになる「焼き鳥とクラリネット」は、別に暴力的な場面があるわけではないが、匿名の「余所者」として、出来事と人への距離の取りかた(でしゃばって口をだすようなことはしないが、心配りをある態度で示す)などにおいて、ハードボイルドとして間然するところがない。

 

 畢竟するところ、地中にはどこになにが埋まっているかわからない、匿名の「大きな静まり」はメンテナンスを繰り返すことによってしか維持されないという電気工の世界観は、ハードボイルドの探偵たちの世界認識とさしたる径庭はないのである。