グロテスクなナンセンスに通じる恐怖--坂東眞砂子『くちぬい』

 

くちぬい (集英社文庫)

くちぬい (集英社文庫)

 

 

 東日本大震災は三つの災厄をもたらした。ひとつは地震津波によるものであり、第二に原子力発電所の破壊があり、第三に主として原子力発電所放射能についての政府や東京電力の虚偽と隠蔽に満ちた発表がある。この小説は震災を直接的な対象としたものではないが、震災がなかったらまったく違ったおもむきの作品になっていただろう。


 ある初老の夫婦が、夫である竣亮は中学校の美術教師として定年を迎え、趣味として続けていた陶芸を窯づくりから本格的に始めるために、妻である麻由子は飲料や食物についてその都度放射能汚染を気にしなければならない気苦労が避けられるというので、高知の山のなか白縫村へ引っ越すことになる。

 

 二人の思惑には若干のずれがあるが、新しい生活は二人にとって実りが多いものに思われた。村の住人たちはいつも笑顔で愛想がよく、狭い共同体のなかに新参者として入っていくさいの軋轢もさほど感じなくてよさそうだ。本格的な窯を手に入れた夫は新たな分野の創作に臨み、妻は神経をすり減らすような日常からは解放された。


 ところが、ある会合で、竣亮は自分たちの敷地を通る「赤線」の上に陶芸窯を建てたことを非難される。「赤線」とは国道や県道には分類されない山道、畦道、獣道などの里道のことで、一応公道ではあるが、長い歴史のなかで私有地のなかに組み込まれてしまうことも多かったのである。窯は赤線を通れないように塞いでいるわけではないし、引っ越してしばらくたつが、道を使用している者も見たことがない。

 

 「そんな我が儘いうたら、この白縫では生き辛うなりますで」という脅しめいた言葉にかっとした竣亮は、喧嘩別れをしてしまう。かといって村人たちの態度が敵意に満ちたものになるわけではなく、愛想のよさは変わらない。だが、水道管が裂かれる、ネコの死体が吊されている、車庫の前に研いだ包丁が置かれている、といった偶然とも嫌がらせともとれる出来事が起きるようになる。

 

 竣亮は村人がそこまですることに懐疑的なのだが、麻由子は、特に愛犬が死んでから(老衰とも毒殺されたとも考えられる)東京でと同じように、水も食料も信頼できない。努めてこれまで表にださないようにしていたこと、鬱病にかかった息子の育て方の問題、セックスレス、知り合いもほとんどいないまま夫に影のように寄り添って山のなかで老いていくことへの恐怖感などが次々に噴出し、来た当時の満ち足りた感覚は見る影もなくなってしまった。


 その間、赤線の先には村人の崇拝する神社があり、そこににまつられているのは、当初考えられていたようなくちなわ=蛇ではなく、くちぬいという口を縫う神さまであることなどが明らかになる。そうした設定のみを見るならば坂東眞砂子初期の『死国』に連なる小説にも見えるが、異なるのはそこにはなんら超自然的な力もそれに対する真摯な信仰も働いていないことにある。つまり、うっかりと共同体の禁忌に触れてしまった者が、土俗的な宗教に絡みとられて身を滅ぼしていく古典的な怪奇小説とは根本的に違っている。


 そもそも赤線の上に窯を建てたことがどんな禁忌に触れるものであったかはっきりしないし、独特な信仰や習俗も、それを守るべき村人の顔や行動が表だってあらわれることもない。彼らはいつも何人かかたまってそこここで折々に見かけられることでは具体的だが、責任も主体性もないことでは抽象的な「人」でしかないのだ。


 夫婦はなぜ自分たちがここまで執拗な嫌がらせを受けるのか理解できない。そして、最後に明らかになるのは、血塗られた共同体の秘密などよりずっと恐ろしいことがあり、どこまでいっても夫婦がどうしてこんな目にあうのかわかりはしないという残酷な事実である。いってみれば、作者には手慣れたものであろう土俗的なホラーであったものが、どこにでも起きうるような不条理な物語へと鮮やかに相貌を変えるのである。

 

 いや、不条理というと生の根源的な条件とも受け取られかねないので、人為的につくりだされたグロテスクでナンセンスな状況についての物語とでもいった方がいいだろう。このグロテスクさにリアルな手触りを与えているのが大震災後の日本のありようで、夫の竣亮のように無自覚であることも、妻の麻由子のように逃げていてもなんの解決にもならぬことを描いた風刺としてこの小説を読むこともできる。