言葉の軽重と固有名--イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』

 

 

 イタロ・カルヴィーノが言うには(『カルヴィーノの文学講義』)、文学の歴史は、言葉を軽くしようとするものと重くしようとするものとの相異なる二つの傾向の戦いの歴史でもある。カルヴィーノ自身は軽さに与すると明言しているが、両者はそれ自体で価値を示すものではない。

 

 言葉は、もし十分に軽くすることができれば、「雲のように、あるいはむしろ微粒子のように、いえ、もっとうまく言えば磁場に働く磁気のように事物の上を飛びまわっている要素」(米川良夫訳)のごときものになる。一方、言葉を十分に重くすることができれば、「言葉からそのあらゆる可能性──響きと情動性と感覚的な喚起力の──を抽き出すこと、詩の一行のなかに世界をそのさまざまなレベル・形態・特性の総体において捉えること、世界が一箇の体系・秩序・階級的序列のなかに組織されており、そこではすべてがその自らの位置を占めているという感覚を伝えること」が可能となるだろう。軽さは断片的であり、重さは、世界とは言わないまでもある程度完結した全体を目指すとも言える。

 

 従って、一般的に軽さと結びつけられがちな風俗的な事柄や笑いや日常的な些事を描くことが必ずしも軽いわけではないし、思想や涙や悲惨な生活が重いというわけでもない。軽さを目指すことと重さを目指すこととの違いは、そうした内容の選択にあるのではなく、対象との関わり方にある。

 

 例えば、悲惨さといっても、悲惨を悲惨としか言いようのない状況として描くためには、ある一定の距離を保ちながら理性、感情、感覚がすべて巻き込まれたその悲惨を汲みつくさなければならない。

 

 軽さが拒否するのは、まさしくそのある一定の距離を保つということである。人間の顔があまりに近づくと色と起伏と穴のある広がりに、遠ざかると色の染みへと変じてしまうように、悲惨さは軽さが飛びまわることでその適正な距離を奪われ、なにか別のものになってしまう。つまり、軽さとは確固としたものであるかに思える物事を解体して新たな何ものかに変容させることであり、常に軽くなることによってしか得ることのできないものだと言えるだろう。

 

 軽さに自足し、ある距離に足を止めてしまえばすぐさま軽さは失われる。しかし、この危うさは重さにしても同じことであって、適正な距離を、顔を顔として認めることのできるような距離を保持することができないなら、理想的な重さは失われてしまうだろう。

 

 

 ところで、固有名詞は軽さよりも重さにより親和性が高い。それは、カルヴィーノが重さにおいてその「天才が明らかにされる」と述べたダンテの『神曲』が数多くの固有名詞を配しながら、そのそれぞれが有機的な連関を保ち、地獄から天国にわたる壮大な全体を形づくっていることにもうかがわれる。

 

 一方、軽さにとっては、固有名詞は手強い相手だと言えるだろう。固有名詞にまつわるイメージ、知識、連想の蓄積がその固有名詞が固有名詞であることの意味をとどめながらそれ以外のなにものかに変容することを妨げるからである。軽さが固有名詞を扱うときの模範的な例は、カルヴィーノがルクレーティウスについて論じる箇所に見て取ることができる。

 

     ルクレーティウスの『事物の本性について』は、世界を知ることによってその世界の堅固さが解きほぐされてゆき、知識は限りなく小さく、静止することのない、きわめて軽いものの知覚となってゆくことを初めて教えてくれた、詩の大著です。ルクレーティウスは物質についての詩篇を書こうと考えるのですが、この物質の真の実体は目に見えないほどに小さな物体でできているのだと、すぐに私たちに警告します。彼は物質の具体性の詩人なのです、そのつねに変わらぬ本質において捉えた具体性なのですが、彼が最初に私たちに語ることは、空虚〔無〕もまた固形物と同じほど具体的であるということです。ルクレーティウスの最大の関心事は、物質の重みが私たちを圧し潰してしまうことを避けようとすることのように思われます。

 

 

 ここでは、『事物の本性について』がエピクロスの原子論的唯物論を叙した書物だといった教科書的知識を解体する移動があって、ルクレーティウスについて、なるほど、と思わせるような指摘が含まれている。

 

 しかし、それと同時に、ルクレーティウスとその『事物の本性について』が、ボルヘスやレムの架空の作者の架空の著作についての小説に取り上げられてもおかしくないような抽象性を備えている。この具体性と抽象性との配合、固有名詞が固有名詞であることでまとっている意味をぎりぎりまで分解しながら、それが散り散りに分散する手前で踏みとどまることにおいて軽さは固有名詞を捉えることができる。