幸田露伴を展開する 3

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 江戸時代の戯作は、主に遊里を中心とした閉ざされた場で、限られた人間関係が組合される。そうした枠組みと決まりきったパターンをなくしたときに、どう「世の人情と風俗」を写し取ることができるかが逍遥の問題だった。二葉亭四迷も、森鷗外も、夏目漱石もいまだ小説を発表していない明治十八年に発表された『小説神髄』で、小説の実例として挙げられ、同時に仮想敵ともなっているのが、馬琴や人情本であるのは致し方ない。だが、後の二葉亭や鷗外や漱石において、逍遥の提示した問題は様々な仕方で答えられている。逍遥は未来の小説のプログラムを掲げた。したがって、もし『小説神髄』が数十年の後に書き換えられたとするなら、小説家として挙げられる名前やその実例に大幅な変更が加えられたことだろう。

 

 一方、もし、そうした新しい『小説神髄』があったとしても、露伴の回答は変わるまい。そして、彼が挙げる、あるべき小説に導いてくれる者の名は同じであると思われる。真の尊敬に値するのは、芭蕉、しかし「洒落散らし居たる」初期の芭蕉ではなく、晩年に至っての芭蕉である。晩年の芭蕉は技巧に頼ることなく、「天地の妙を天地の妙と」、「人情の妙を人情の妙と」そのままあらわすことができた。明治二十三年、露伴二十四歳のときのこの書簡に記された芭蕉に対する敬愛は、様々な文学思潮の移り変わりを見てきた晩年の露伴においても変わることなく持ちつづけられている。

 

 小説が風流を十全に体現するように思われないのは、小説が、先に述べたように、『八犬伝』のような奇異譚にしろ、「世の人情と風俗」を写し取るものにしろ、所詮作り事に過ぎないからである。小説は、現実を文章に組替えることによって、否応なく現実をガラス越しに見る視野をもたらしてしまう。虚実の皮膜に戯れることは、一般的には風流と解されるのかもしれない。だが、露伴が風流という言葉で指しているのは、虚構と実在、人為と自然といった対立が無効になるような場所に立つことにある。小説はこうした対立を常に意識させる。この時期の露伴は、小説を書きながら小説から必死に逃れようとしている。

 

 露伴は、自らの目指す場所を芭蕉に託して語っている。

 

芭蕉の句の中にてもよき句は、自然をのべ人我の妙を発し、物に寄る心心に来る物を取つて句となせしにて、つまり、或時は明鏡の如く天地を写して句をなし、又或時は蓮花の虚空に香を放つ如く湛然たる蕉翁自身の本来蔵(是も自然中の妙宝珠なり)より句を発し、又或時は仙鶴の一声松樹に鳴く如く自然に対して起る妙感を述べて句を出し、又或時は自然と吻合する観念を若葉が日に照らされし如く其のまゝに発して句をなせしにて、一も芭蕉が作の句はなく、芭蕉が所有と執し着すべき句もなく、芭蕉が作りし人形山川草木の美を見出せしにはあらずして、元より有る人情万象を其のまゝ芭蕉は炬火を把り若くは月となって照らし出したるばかりと考へ候(句点引用者)

 

 芭蕉の句は、眼の前にある自然をここにいる私が写すのではない。鶴が自然の一部であり、鶴の鳴き声が自然の発する声であるように、自然との無媒介な交わりが発する句である。虚構は自然の中に偽の自然を招き入れる。

 

 前期の露伴の小説に頻出する発心やある種の悟りは、虚構という偽の自然から真の自然に向かおうとする運動であり、同時に小説から脱け出そうとするものでもある。小説において自然と無媒介に交感することは不可能である。小説にできるのは、ただ小説の外に、そうした交感の場があることを暗示することだけである。