哲学機械 2 プラトン『国家』

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

 

 第一巻は正義についての議論で占められている。正義の問題は一人だけの生活ではあらわれることなく、人間が社会的に結びつこうとするときに始めたあらわれる問題である。従って、国家が取り得る様々な可能性を考察するときに正義の問題から始めることは理にかなっている。

 

 国とても一国で成り立っているわけではない。戦争が起こるかもしれないし、その準備のためには余計な課税や負担がかかることもあり得よう。戦いのなかで敵を殺すともなれば、正義の基本原則を傷つけることになるかもしれない。その上で、ド・クインシーは正義の基本的な問題を「市民同士のつながりから最大級の力を引き出すにはどうしたらよいか。人の力を最高度までに高めるには、あるいはそうした方向に導くにはどうすればいいか。そして、最後に、こうしたことすべてを人間個人の権利をできうる限り侵害も棚上げもなしにするにはどうすればいいかである。」とまとめている。

 

 この問いかけにプラトンの『国家』は答えているだろうか。

 

 ソクラテスは、アリストンの息子グラウコンとともに、月の女神ベンディスの祭りを見物にペイライエウスまで出掛けていた。帰ろうとするとき、ケパロスの息子ポレマルコスから是非とも夜祭りも見ていくように引き留められる。そして、対話編に通例のように、ソクラテスとその他の者たちの対話が始まる。すでに年老いているケパロスは老年について語るが、彼にとって老年は、立派な家柄の市民であるために適度に豊かであり、生まれつきさほど激しい欲望をもっていないことによってそのつらさが幾分軽減されている。いずれにしろ、特にこの問題は深く追求されることなく、ケパロスは息子のポレマルコスに対話を譲り、正義について語られ始める。

 

 彼はシモニデスの意見として、「友には善いことをなし、敵には悪いことをなすのが、正義にほかならない」(藤沢令夫訳、プラトンからの引用は以下同じ)と主張する(訳者の注釈によれば、この意見は広くギリシア人を支配した伝統的な見解であったという)。しかしこの意見はソクラテス流の反問によって曖昧なものになっていく(たとえば、人間に判断の誤りはつきもので、友や敵、善や悪について間違うことは多々ある)。

 

 ここで、二人の対話をいらいらしながら聞いていたトラシュマコスが割り込んできて、「強いものの利益になることこそが、、いずこにおいても同じように〈正しいこと〉なのだ」と主張する。しかし、ソクラテスは、羊飼い、料理、航海などの例から、自分たちのことよりも、支配されるものの利益を考えるのが普通ではないかと反論する(たとえば、羊飼いは羊が健康で丈夫に成長することにまず関心を払うだろう)。こうした議論の末、「〈正義〉は徳(優秀性)であり知恵であること、〈不正〉は悪徳(劣等生)であり無知である」というとりあえずの結論が提示される。

 

 トラシュマコスは、解説の藤沢令夫によれば、黒海入り口のカルケドン出身の弁論家で、ソクラテスとは最小限十歳以上年少であるらしい。プラトンにおけるソクラテスの対話篇というと、穏やかにソクラテスが若者たちに問いかけていくものが圧倒的に多いが、トラシュマコスは最初からけんか腰で、「もし〈正義〉とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。」と対話篇に共通する弱点を指摘する。実際、ソクラテスは自分の意に染まない答えについては容易に受け入れようとはしないし、明らかに誘導していると思われる。

 

 もっとも私も以前はそうしたことが気になって仕方がなかったのだが、のらくらしたソクラテスの態度にある人間的な魅力を感じるようになってきたのである。次のようなラッセルの指摘も納得できるものである。

 

ソクラテス方法によって処理するに適当な事柄とは、次のようなものである。すなわちすでにわれわれが、正しい結論に到達しうる十分な知識はもっているが、思考の混乱だとか分析のし足りないために、われわれの知識をもっとも論理的にうまく利用することが、できなかったような問題なのである。「正義とは何か?」というような問題は、プラトン的対話で討論するのに著しく適している。われわれはすべて、「正」とか「不正」という語を自由に使っているが、その使い方を検討することによって、われわれは帰納的に、慣用法にもっとも適した定義に到達することができる。それらの語がどのように用いられているか、ということだけを知っていればたくさんなのだ。

 

 

 ソクラテスプラトンととりあえず分離したときには、この観察は正当だといえるだろう。プラトンの対話篇には、およそ「正義について」だとか「友愛について」といった副題がついているが、そこで行われることは、正義なり友愛について絶え間なく周回し、使い直すことであり、もっとも腑に落ちる用法を見いだすことなのである。

 

 国家について考える際に、その土台ともなる正義がなければ、終わりのない戦争状態に巻き込まれてしまうこと、また正義がなければ、神々の好意を受けることができないことからも、是非とも正義についての考察が必要であることは認めながらも、すでにこの第一巻目からしてド・クインシーはプラトンに対して手厳しい。すなわち、

 第一に、あまりに乱雑で偶然に頼りすぎていて、後に続く論及の進み具合を予示しているとはとても言えない。

 第二に、あまりに言葉だけに、細かいところばかりにこだわりすぎている。

 第三に、後に続く部分と関連性がない。次に続く長い論考の入り口としては活力がなく無用なもので、議論の自然な移行が認められない。