哲学機械 4 プラトン『国家』

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

 

 

 

 衣食住を満足させることだけで国家は形成されない。衣服、食物、住居を作りだすにはそれぞれ独自の道具がいり、もちろん、道具を製作するにも道具がいるので、必要とされる職種は、生存に不可欠なものの数十倍に増加する。

 

 さらには、絶海の孤島でない限り、他の国との交渉が存在することを考えねばならない。友好的な外国も、敵対的な外国もあることを思えば、外交の役割を果す者や兵士も必要となろう。そしてなによりも、必要最低限な愛国心と国家への忠誠が要求される。それゆえ、国家においてもっとも重要なもののひとつに教育があげられることになる。こうした議論の過程で、プラトンにおいて有名な、詩人や劇作家に対する非難があらわれる。欲望の限りをつくす神々を描きだす叙述は、神々に対する崇敬と「健全な」道徳とを同時に損うことになろう。

 

 たとえば、ヘシオドスが語るところによれば、ウラノス(天)はガイア(地)とのあいだに生まれた子供たちを、生まれるとすぐにガイアの腹のなかに隠すが、末っ子であるクロノスが父親の性器を切り取って王位を奪う。また、クロノスも自らの王位を守るために生まれた子をすべて飲み込むが、ゼウスを身ごもった王妃レアはガイアの助けを借りて逃れ、生まれたゼウスがクロノスを倒して王位につく。こうした物語は、たとえ本当であったとしても、思慮の浅い若者に教えるべきではない。自分の行為を正当化するために、神々を使いかねないからだ。

 

 詩人に対する批判は最終章である第十巻でも繰り返される。詩人は画家と同じく、物事の表層的な部分、を真似て描写するものに過ぎないからである。表層的な部分とは絶えず生成変化する現象であり、真似によってはその奥にある真実、イデアを描き取ることはできないのである。また詩は、感情を誤った方向に揺すぶりもする。

 

このようにしてまたわれわれは、いまや、一国が善く治められるべきならば、その国へ彼を受け入れないことの正当な理由をもつことになるだろう。ほかでもない、彼は魂の低劣な部分を呼び覚まして育て、これを強力にすることによって理知的部分を滅ぼしてしまうからだ。それはちょうどひとつの国家において、たちの悪い連中を権力者にして国をゆだね、よりすぐれた人々を滅ぼしてしまうようなもの。それと同じく、真似を事とする作家(詩人)もまた、人間ひとりひとりの魂のなかに悪しき国制を作り上げるのだと、われわれは言うべきだろう、魂の愚かな部分、どちらかがより大きいか小さいかを識別できずに、同じものを大と思いときには小と思うような部分の機嫌をとり、自分は真理からはるかに離れて、影絵のような見かけの映像を作り出すことによってね

 

 

 国の守護者・統治者となるものの教育科目としてあげられるのは、主として文芸と音楽、そして身体的な教育である。そして国家がもつべき四つの徳、知恵、勇気、節制・正義は統治者、軍人、市民という国家を構成する「個人の魂のなかにも、同じ種族のものが同じ数だけある」ので、教育によってその精錬が目指される。

 

 身体的教育についてド・クインシーは面白い指摘をしている。オリンピックの発祥の地として古代ギリシャは有名だが、運動選手としての教育と、兵士として役だつ教育とは異なるということである。

 

 「剣闘士の学校は、よく知られ変わらないのは、公的な祭りや試合の前に体力を最大限に準備するためのものだということである。現代の、そして古代の訓練体系では、この準備段階の教練はきちんと計算できるものであったことが知られている。『ファン』が我々のなかにもいる拳闘家は、厳しい罰則規定のある法的な契約関係に入り、試合の時日が決まると、その六週間前からトレーニングに入る。試合までの日、食事、練習、睡眠、すべてを規則的に管理し、筋肉と体調を最上の状態に整える。さて、確かに一般的に見れば、プラトンの兵士の目的も同じであるが、重要な相違点がある。つまり、彼らの戦いは一日や二日ですむものではなく何日もかかるし、決められた日どころか、いつ始まりいつ終わるのか、どれだけ続くかもわからない。この相違一つですべてが変わる。古代と現代のトレーニングは二つの顕著な事実について一致している。一、異常な訓練によってついた体力は長続きせず、一様に貧弱といえる状態にまで落ち込んでしまう。シジフォスの岩のように、抵抗するものを苦痛に満ちた異常な努力で頂上にまで押し上げると、それが転がり落ちるときの大音声の激しさもすごいものになる。激しい状態は突然の反動を生まざるを得ない。二、異常な緊張からくる痙攣は危険を伴わずにいないことがわかっている。卒中や動脈瘤破裂といった突然の死は、自然の器官を危険なまでに酷使することから起きがちなのである。これもまたギリシャの経験したことだった。力をつけ、安全を確保するには時間をかけなければならない。そんなわけで、プラトンは身体的訓練の大きな法則として、食事、練習、節制、力をつけるための体操などを運動選手の学校から兵士のために借りることをやめたのである。」

 

 プラトンによれば、統治者としてふさわしいのは真実を知るもの、つまりは哲学者である。

 

心底から学ぶことを好む者は、真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているものであって、一般にあると思われている雑多な個々の事物の上にとどまって、ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は、真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分――真実在と同族関係にある部分――によって、〈まさに何々であるところのもの〉と呼ばれるべき、それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは、ひたすらに進み、勢いを鈍らせず、恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって、真の実在に接し、交わり、知性と真実とを生んだうえで、知識を得て、まことの生活を生き、はぐくまれて行く。そのようにしてはじめて、彼の産みの苦しみはやみ、それまではやむことはないのだ

 

 

 真実在とは生成消滅しないようなもの、原型、イデアであり、プラトン哲学の根幹をなすものである。しかし、翻って考えるなら、ソクラテス流の対話術、曖昧でぬらりくらりとした答弁のあり方こそ生成消滅の最たるものではないだろうか。

 

 あなたがいま言われるようなことを耳にするたびにいつも、聞く者たちのほうは何となくこういう感じを受けるのです。つまり、こう考えるのです――自分たちは問答をとりかわすことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しずつわきへ逸らされて行って、議論の終りになると、その〈少しずつ〉が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを言っているのに気づかされる。そして、ちょうど碁のあまり上手くない者が碁の名人の手にかかると、最後には閉じこめられて、動きがとれなくなるのと同じように、自分たちもまた、碁は碁でもちょっと違った、石のかわりに言葉を使うこの碁によって、最後には閉じこめられて、口を封じられてしまう。しかし、だからといって、真実そのものはけっしてそのとおりのものではないのだ、と。

 

 このように対話者であるアデイマントスに言わせているプラトンがそうしたことに無自覚だったわけがない。プラトンが描いたソクラテスと実際のソクラテスの応対のあり方や思想にどれほどの懸隔があるか、私にはわからない。たしかニーチェはどこかで、ソクラテスの殺害者としてプラトンを批判していた。しかし、体系的な思想などまったく目指しておらず、それについてはこんな話があってね、と逸脱に逸脱を重ねるソクラテスの姿も想像できなくはない。それはソフィストに見まがうものではあるが、キルケゴールが言うように、言論のもっともらしさが霧散し、真理が「人格性」に収束するようなソクラテスである。

 

永遠なる思想が詭弁においては諸思想の無限性のうちに解消するのと同じように、諸思想のこの群がりは、それに対応するソフィスト達の群がりにおいて具体化される。換言すれば、ソフィストを一者と考えることはなんの必然性もないが、これに反してイロニーの人はいつでも一者である。なぜならば、ソフィストは種類、同類、等々の概念に属するが、<イロニーの人>のほうは<人格性>という規定に入るからである。ソフィストはいつでも倦むことなく活動しており、いつでも自分の眼の前に横たわっている何物かに手をのばす。これに対してイロニーの人はどのいちいちの契機においてもそれを自分自身のうちに還元する。しかし、この還元と、それによって起こされる逆流とが、まさに人格性の規定なのである。したがってその詭弁は、イロニーのなかでの一つの役に立つ要素であって、そのイロニーの人がその詭弁によって自分自身を自由にしようと、あるいは他の人から何かを奪い取ろうと、彼はやはりその両方の契機を意識しているのである--すなわち彼は享受しているのである。しかるに、享受こそは、たとえそのイロニーの人の享受がすべてのもののうち最も抽象的なもの、もっとも無内容なもの、単なる輪郭、また絶対的内容すなわち浄福を所有する享受の最も弱い暗示であろうとも、まさに人格性の規定なのである。したがって、ソフィストが勤勉な実業家のように走りまわるのに、イロニーの人は傲然と、自分自身のうちに閉じこもりつつ--楽しみながら、歩くのである。